住職のこぼれ話の第1話で紹介した長浜・福田寺の北には、戦国時代から関ヶ原合戦まで盛んに各大名に鉄砲・大砲を供給した国友村がありました。 そして、今回の第7話では、第6話、第7話で紹介した白川郷で鉄砲の火薬が作られて、本願寺に納められたというお話です。
日本にとって初めての鉄砲は天文12年(1543)、種子島に漂着したポルトガル人によって、2丁が伝来しました。 そのすぐ2年後には、これを真似た日本初の鉄砲が難波で製造されたことが記録されています。 日本の優れた鍛冶技術が、これを可能としました。
火縄鉄砲は瞬く間に国内諸大名や有力者に知られ、実用的に工夫・加工されていきました。 初期の鉄砲は早くも大名の浅井家において火縄銃の試し打ちが行われたようです。ところが当時の火縄銃は一般的に、なかなか命中しませんでした。しかし、浅井家が最初に仕留めた鴨のかも汁が当時の本願寺法主に献じられたという記録が残っています。
織田信長は鉄砲に非常に関心を持ち、導入に積極的でした。本願寺と信長との約10年に亘る「石山合戦」は、鉄砲による戦いといっていいでしょう。
『信長公記』によれば、木津浦の海戦では本願寺が中国筋安芸の水軍から、素焼き土器に火薬を詰めた爆弾を投げられたり、信長は先陣の足軽勢にうち交って駆け回る間に、足に銃弾が当たって軽傷を負ったという記録があります。 敵(本願寺)は数千挺の鉄砲で雨あられのように撃って防戦したという記述もあります。
一方、石山本願寺側では、しきりと文書で各地の本願寺寺院、有力者に鉄砲などの援助を依頼しています。 雑賀には鉄砲3千丁・手弁当で、という内容の文書があり、各地の門徒数の多い寺院には、鉄砲・米・人員など多くの応援を依頼していました。
鉄砲の製造については多くの資料がありますが、火薬の製作については資料があまりありません。 火薬の原料のうち、炭・硫黄などは国内で産出されますが、塩硝(硝煙・硝石)については、僅かな記録しかありません。 特に硝煙は日本では産出されないので、専ら輸入品でした。織田信長を始め豊臣秀吉、徳川家康などは、競って堺と商人を抑えました。
日本産の硝煙も一部使われていました。特に白川郷はその一大産地だったようです。広島地方では、硝煙を馬小屋で作っていたという話もあり、少量ですが各地で生産されていたようです。
永禄年間(1560年代)までは、五箇山(白川郷)焔硝は糸や絹とともに主に本願寺に納められ、信長との石山合戦中は大坂本願寺に上納されていたという伝承があります。 白川郷の火薬も取り扱った問屋の和田家に元禄年中(1688年)以降の覚書の記録が残っています。
白川郷に復元された硝煙の館
焔硝製造法はほかの地方から白川郷にもたらされたようです。
その作り方は、まず一年目に、農家の合掌作りの床下に縦横4m深さ2mくらいの土穴を掘り、そこに稗枝を敷き、その上に交互に蚕の糞やヨモギ・キツネウドなどの山草を20㎝ほど重ねてそれを年に1~3回まぜあわせます。 その上に糞尿をかけると5年目になって煙硝土が出来ます。煙硝土から冬場に灰汁に煙硝土を桶に入れ、桶底から灰汁をとりだして煮詰めます。 灰汁汁を中煮・上煮と何回も煮詰めると煙硝の結晶ができ、これを土用前後の暑い季節に20日ほど天日に干して乾燥します。驚くほどの時間と手間がかかることが分かります。
もっとも、翌年からは煙硝土を一部再利用するので制作期間が短縮されたようですが。
白川郷の焔硝は、問屋が加賀藩に納入し、これと引き換えに加賀米を受け取るという交換取引でした。 売り先は時代とともに、加賀藩から大阪や京都、名古屋、江戸城へと変化し、いずれもその都度口銭(役銀)を藩に納めていました。 白川郷から加賀藩(金沢)までの運搬路は、近年、調査が進められ、それによると白川郷から金沢まで、2つの経路があったようです。 その経路の途中には、浄土真宗の寺院がいくつか存在しています。雪深い白川郷の険しい山中に寺院があるのは不思議ですが、これが当時の交通要路で、早い時期から要所に浄土真宗の教線が伸びていたようです。
1868年以降、チリ硝石の輸入を機に、明治半ばには白川郷の硝煙生産は完全に消滅してしまいました。
【参考文献】
新編「白川村史」上巻―平成10年3月31日、白川村刊行
『一向一揆論』金龍静 吉川弘文館 平成十六年
現代語訳 信長公記』太田牛一著 中川太古訳 新人物文庫 株式会社KADOKAWA発行 平成二十五年、他