浄土真宗 正信寺
正信寺
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住職のこぼれ話(6)

前回の第5話で親鸞聖人と白川郷にゆかりのある嘉念坊(かねんぼう)の関係、 そして、今回の第6話では、白川郷で浄土真宗の鍵を握る内ヶ島(うちがしま)氏とその居城帰雲城(かえりくもじょう)について紹介します。


栄華を誇った内ケ島氏と一夜にして滅んだ帰雲城

帰雲城と内ケ嶋氏

帰雲の名の由来は、東に帰雲山(標高1622m)、西に三方崩山(標高2058m)、北方に野谷庄司山(1797m)と妙法山(1775m)の山々に囲まれ、雲が山にぶつかって行ったり来たりすることから名づけられたものと思われます。 国道156号線沿いの、御母衣(みぼろ)ダムの北、「白川郷合掌造り集落」から南方約5Kmの保木脇(ほきわき)や、庄川沿いに、 川筋が大きく屈曲しているところの帰雲山の中腹にあったと言われます。

帰雲城は寛正年間(1460年頃の室町時代)に、内ケ嶋氏為氏(うちがしまためうじ)により築城されました。

飛騨地方

飛騨地方の概略地図(新編「白川村史」より引用)

内ケ嶋氏と浄土真宗

内ケ嶋氏為氏が白川郷に入ってからしばらくのあいだ、浄土真宗の門徒たちは城主の命令に反して、年貢を納めず、他の一向一揆に加勢したりして近隣諸国にも影響し、 蓮如上人からも「おいさめの文」が出される状態でした。このため文明17年(1485)、内ケ嶋理氏は常蓮寺と全面衝突となりました。

内ケ嶋氏と本願寺や一向一揆の関係は、石山合戦も含め、協力・反発の一進一退の関係でありましたが、永正4年(1507)以後十余年間、越前の守護代であった朝倉貞影氏が加賀に通じる越前の出入り口をすべて閉鎖し、 本願寺門徒が京都や琵琶湖地方から金沢へ向かう通行(北国街道)を一切拒否する挙にでました。加越能の門徒は困り白川街道に迂回せざるを得ませんでした。

困った蓮如の子・実如は、内ケ嶋雅氏に「どうか、白川郷内を通らせてもらえないか」と交渉して、「北国通路」という陸上通行を設けました。 その後、本願寺と内ケ嶋氏理とは協力して、本願寺の一時警護をすることになりました。

白川街道は後の時代まで、「米の道」「塩の道」「焔硝の道」「漆・和紙・繭・生糸・蝋」など、その他消品流通の道である重要な街道でありました。 その後、内ケ嶋氏理(うじよし)は4代に亘って本願寺と密接な関係を持ちました。 “天文16年(1547)飛州内ケ嶋氏兵庫助氏卒去につき、遺族より大阪本願寺へ志納金五百匹を進上し、証如は金千匹を送って香典とする。” (『石山本願寺日記』など)という記述のような親密な関係のほか、本願寺に出仕や警護をしていました。

内ヶ島氏の財力

白川郷の北には上滝(うえたき)金山、荘川の反対側に落部(おちくべ)金山、 その東に六厩(むまい)金山があり、庄川を北上すると森茂(もりも)金山、 片野(かたの)金山があり、帰雲城の北には横谷(よこたに)銀山があり、 北東には天生(あもう)金山があったなど、多くの山や断層が複雑に交差していて、鉱山が多く存在し、庄川やその支流で砂金が採れたようです。

天然の複雑な地形に建てられた帰雲城は、金銀を採掘し、為氏は八代将軍・足利義正の銀閣寺造営にも資金協力し、一方で守護不入の特権を生かした「奉公衆」 (足利一門及び守護大名の庶流・被官で内ケ嶋氏は立場として下の方ではなかったか)の立場を利用し、足利幕府の命で飛騨に赴きました。

さらに本願寺と一向宗門徒と同盟を結んで、越中砺波へ領土を拡張しました。また織田信長が築いた安土城では、内ケ嶋氏理は金銀を上納して貢献したと言われています。

応仁の乱の時代

応仁元年(1467)、応仁の乱が起こりました。文明元年(1469)、本願寺の蓮如上人は瑞泉寺の蓮乗に親鸞聖人の御影を下付し、また越前国の吉崎に坊舎を建てました。 その間、嘉念坊善俊から九代目にあたる教信は寺を弟の明教に譲り、自らは念願の武士になって「三島将監」を名乗りました。 内ケ嶋為氏は長享2年(1488)、教信や明教と戦い、明教は敗死し教信は逃亡しました。真宗門徒は明教の子を越前で養育し、この子は成長して「明心」と称する遺児をたてて、道場の再興を図りました。 本願寺の蓮如上人は内ケ嶋氏と門徒の和睦をはかり、照蓮寺を建てました。 照蓮寺の事務職を担ったのは恐らく内ケ嶋氏の女婿と考えられますが、あらたに明心が初代の管主を務め、この後、照蓮寺は飛騨真宗の拠点及び北陸一揆を援助する武装集団となっていきました。(別説もあります)

天正大地震と内ヶ島氏の滅亡

天正13年(1585)11月29日、新暦の1586年1月18日、午後11時~翌午前2時頃、日本列島中部地方から近畿地方(飛騨地方)を中心とした白山地方の、飛騨、越中、加賀、美濃で天正大地震が発生しました。 推定M8.2だそうです。

帰雲城はこの大地震による山崩れで埋没し、城主の内ケ嶋氏はもとより、城・兵士・城下町すべてを飲み込みました。 一族は全て死に絶え、滅亡しました。家屋300戸以上、死者500から1500人、生き残り数名。>帰雲城と推定される地の保木脇に記念碑が立っています。

帰雲山の崩壊地

帰雲山の崩壊地(新編「白川村史」より引用)

織田信長と石山本願寺との10年戦争(石山合戦)は、明智光秀の謀反による「本能寺の変」によって終息し、羽柴秀吉がその後を継ぎました。 天正13年(1585)11月、秀吉は関白に就任し、柴田勝家との勢力争いで佐々成政氏などを打つため、北征の戦を実行しました。(天正11年(1583)七本槍で有名な、賤ヶ岳の戦い。)

内ケ嶋氏は一貫して柴田側の佐々氏を支援していましたが敗れて降伏し、秀吉側の金森長近・可重父子に対して内ヶ島氏理は対抗しないで帰雲城に立て籠もり、結局降参しました。 内ケ嶋氏は金銀を貢いだおかげで一部の領土を削られただけで済み、領土の大半を安堵され、その上、豊臣大名として生き残ることができました。 安心した氏理は、慰労の宴で能の催しを計画します。まさにその前夜、天正大地震が起こり、帰雲城は跡かたもなく地中に埋もれてしまったのです。

帰雲城には埋蔵金があるのではないかとの噂があり、近年、現地の有志が探査・発掘をしているそうです。

【参考文献】
新編「白川村史」上中下巻―平成10年3月31日、白川村刊行
「消えた戦国武将」加来耕三著―平成23年12月31日、メディアファクトリ新書

白川郷

白川郷の景色