浄土真宗 正信寺
正信寺
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住職のこぼれ話(1)

正信寺住職の、釈京英です。

私は歴史に関心があり、これまで、浄土真宗関連のご旧跡巡りを 長年にわたり続けてきました。正信寺ホームページ開設にあたり、私が今まで訪れた中から印象の 深いご旧跡を、記憶の中から紹介したいと思います。


近江の福田寺(ふくでんじ)

歴史を感じさせる福田寺

平成18年10月、近江の福田寺(ふくでんじ)を訪れました。

福田寺は、琵琶湖の北東岸、現米原市長沢にある、 本願寺派の大きな寺院です。別名長沢御坊とも言います。 山門に入るすぐ前に、朝廷の許しがないと建てられない大きな塀が立ち塞がり、直接中を伺い見ることはできません。 広い境内には、史跡名勝天然記念物の福田寺庭園の枯山水など多くのご旧跡があります。

大安寺の末寺で朝廷とゆかりのある息長一族の菩提寺、布施寺として建立されました。息長寺(おきながじ)とも言われました。 鎌倉時代の正安年間(1299~1302)に本着坊善顕が 三輪法相宗から覚如上人に帰依して覚乗と名乗り、 寺号も福田寺と改めたといいます。

福田寺は、信長に滅ぼされた浅井家とも深い絆があり、浅井家の書院も移設されて現存しています。 江戸時代から維新の頃まで、米原の彦根藩との関係も深く、藩主井伊直弼の従兄弟が住職を務めたこともあります。

蓮如上人とのゆかり

蓮如上人がまだ本願寺継職以前の若いころ、 先学の教えを学ぶため、大津から小舟で琵琶湖を渡り、直接福田寺に入られました。 永享10年(1437)24歳の時、蓮如上人は覚如上人などの書をここで書写され、福田寺の住職と東北、北陸などを巡回されました。

残念ながら、蓮如上人が学問された庵は残っていませんが、「蓮如上人お手植えの松」といわれる松が本堂の前に残っています。

寺伝によれば、上人は延徳年間(1489~1492)の3年間、再び福田寺に滞在されたそうです。加賀の一向一揆の直後に当たります。

鉄の精錬や火縄銃との関係

福田寺に改名する前の息長寺には、「古事記」や「日本書紀」に登場する、仲哀天皇の妃で神功皇后でもある息長足媛(おきながたらしひめ) や天之日矛(あめのひぼこ)が逗留したとの伝承があります。天之日矛は製鉄の技術を持つ渡来人を招来したといわれています。 ですから、製鉄の遺跡が琵琶湖の東岸から若狭湾方面に散在しているのも納得できます。

なお、福田寺のすぐ北には鉄砲の町、かつての国友村(くにともむら)がありますが、 これは司馬遼太郎の「街道をゆく-24」 にも詳しく紹介されています。 花火や鉄の彫刻が展示されている「国友鉄砲の里資料館」があり、火縄銃に触れることができます。

国友村は関ヶ原の合戦の時代までは繁栄したそうですが、 太平の江戸時代から火縄銃の需要が減り、静かな佇まいとなっています。 今では、現代風に小綺麗に街並みが整備されています。

その昔、この国友村は浄土真宗の信者が大勢いて、道場もあり信仰の深い土地でした。 道場の本尊や什器備品の一部が福田寺に引き取られて現存しています。