浄土真宗 正信寺
正信寺
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住職のこぼれ話(26)

前回の加賀の一向一揆1では、加賀の一向一揆の首謀者は蓮如上人ではないのでは、という見解を述べさせていただきました。 しかし、吉崎退去して小浜へはどんな船を利用され、どのような航海だったか、小浜への上陸の様子については、詳しい史実を知りませんでした。

小浜の方に手がかりが残っていないかと感じていましたところ、中山書房発行の『蓮如上人の生涯』を執筆された、藤井哲雄先生から「小浜に行ってみないか」とのお誘いがあり、同行させていただきました。 2005年9月のことです。

今回は、吉崎御坊を脱出したときの様子、そして小浜訪問についてのこぼれ話です。

加賀の一向一揆2

吉崎退去

文明7年(1475)加賀門徒と富樫正親との争いは苛烈になりました。加賀・光教寺蓮誓(蓮如上人四男)と、松岡寺蓮綱(蓮如上人三男)は、門徒が危機的状態にあるとの判断を直接蓮如上人に報告しました。 また、近江・滋賀県大津にいた順如(蓮如上人長男)もこの事件を聞き、急ぎ吉崎にかけつけて事態の収拾を図りました。

蓮如上人が一揆を差配しているとの誤解を与えていないことを周知させるため、上人は吉崎から離れた方がいいという判断で、急遽吉崎を脱出する判断がなされました。蓮如上人61歳の時です。

朝倉喜裕著『蓮如・北陸路を行く』には、「蓮崇が陰で糸を引いていて、加賀門徒の国主に対する造反をあおっていた。 蓮如上人の立場を傷つけずに双方の紛糾を鎮めるには、吉崎退去しかないと考え、その日の夕刻、妻と僅かの供を連れてひっそりと吉崎を退出することになった。 鹿島の浦に泊めてある順如の御座舟に乗り小浜へと出航する。蓮崇は、先回りしてその船に乗り込み、隠れていたが、順如が見つけ蓮崇を引っ張りだし、砂浜めがけて投げだした。」と記述しています。

また、千葉乗隆著『蓮如上人ものがたり』では、「出発のとき、蓮崇が船にひそかに乗りこんでいるのを発見し、陸へ投げた。蓮崇は船が見えなくなるまで浜辺に泣き伏していたという。 蓮崇は加賀(金沢市湯涌町)の山中に城を築き立て籠った。幕府所領を横領したようで、昨年の年貢を全く納めず、逐電した。 門徒によって追われ、生国の越前に逃げた。権力者を通してのゆるしを求めてきたが、拒否された。 二十余年後、上人が臨終のときようやく許しをえた。」と記しています。

小浜への航海の様子

吉崎を船で脱出しましたが、その船はどんな船だったのでしょうか。 千葉乗隆著『蓮如上人ものがたり』には、急遽小浜から吉崎に来た時の便船、「傳馬船」とあり、長野勝楽寺殿の「蓮如上人絵伝」との引用でその写真が掲載されています。 これは小舟で船頭の外5人が舟板に座っています。朝倉喜裕著『蓮如北陸路を行く』には、「船で退出する一行」という出所不明の写真が掲載され、船頭が櫂を大きく操り、波は大きく五条袈裟姿の3人が座っています。 説明には坂東節のように荒波の中、念仏合掌で不思議に海上の嵐はぴたりと収まったという解説があります。

吉崎から小浜まで海路では、日本海を陸沿いに敦賀を経て南西に約50㎞ですが、陸上で約100㎞、歩けば3~4日はかかったと思われます。 NHKの「グレートトラバース3・日本300名山人力踏破」という番組で、鹿児島の南の海40Kmをカヤックで、6時間で渡ったと放映されていましたので、8月の日本海50Kmを1日で漕ぎ渡ることは可能だと思いました。 しかし、艪一本ですから船頭さんは必死で艪を漕がなければならないと思います。

若狭町の明応寺

三方上中郡若狭町山内にある明応寺(本願寺派)を訪ね、宝物など見分させていただきました。 何か絵像などありませんかと尋ねたところ、現在は使っていないと前置きして、奥から厚い和紙でできた大きな絵伝掛軸のような冊子を取り出していただきました。 すると、それは古文書の『蓮如上人絵傳管見録斜』という名の絵解き冊子で、まさに求めていたものだったため、感動をもって拝見しました。

『蓮如上人絵傳管見録斜』「御座舟」

『蓮如上人絵傳管見録斜』「御座舟」

『蓮如上人絵傳管見録斜』や「掛け軸」を拝見すると、小さな彩色の「御座舟」(写真参照)が描かれており、幅広い船の中に4本柱の上に壁や屋根があり、船中には黒衣の僧侶姿の5人が座っています。 船頭は艪を大きく漕いでいない様子で、間もなく小浜へ到着するようです。御座舟は幅もあり、大きく飾り立てて、蓮如上人が載る船には相応しいかと思われます。 図柄には番号が振ってあり、文中には6人の氏名、上人・長男順如・赤尾弥七入道道宗・吉崎大塚彦左衛門・慶聞坊龍玄・小塩能浦小鍛治弥が記入されていました。

『蓮如上人絵傳管見録斜』の『第4段 吉崎退去之段』からは、以下に概略しますようなことが読みとれました。

上人が地元の人から依頼されて小浜から上洛する際に「後の師を小浜で帰依する弟子一人を誰か指名して残してほしい」という切なる願いに、上人は「応聞坊」を推挙されて、元天台宗の寺を明応寺の開基としました。 明応寺開基は、吉崎退去の一部始終をよく知っている人です。その経緯を十分経験して、檀家に説明する『蓮如上人縁起』を残し、寺の大きな法事の度に絵の掛軸やその絵解きを行っていたのです。

文明6年(1474)3月に、吉崎の寺内町が本堂も含め火事で焼けました。 その後、吉崎は仮殿を造り、蓮如上人は加賀二俣本泉寺に移って教化を続行していましたが、再建することについて、この管見録の中に記載がありました。

朝倉俊景が「早く再建計画を立てなければならないが、吉崎は土地が狭いので、一条ヶ谷に移転して、御堂も広く御再建したらよい。」など案を出したという記述が見られました。

同管見録では、小浜への渡航に関しても、「吉崎を破却して、上人をも追放しようとするので、上人はふかく悲しまれた。 実に邪魔・外道のすることで、長居は危険だ。急ぎ退散するべきとして、吉崎の仮家を退出して、赤尾の弥七道宗と吉崎の彦右ヱ門と慶門坊以下の御弟子の両人を従えて、塩崎の浦の小舟を吉崎の湖水へ招き、乗船した。 「ヨモスガラタタク船ハダ 吉崎ツヅキノ 山ゾ慈シキ」と詠って、翌日若狭の西浦に着いた。」と記されていました。 要するに、蓮如上人の命が危機に晒されたので、直ぐ逃げなければならない事態だったということが読み取れます。

小浜の元海寺(本願寺派)

小浜の周囲はリアス式海岸で複雑な形の小さな鋸状半島が若狭湾に突き出ています。その中央の田烏(タガラス)という地名のところに、元海寺(ゲンカイジ)があります。 小浜から田烏まで入り組んだ海岸線でしたが、原子力発電所建設のおかげでトンネルができ、思いのほか早く到着しました。

人気のない小道をミニトラックが来ました。急いで呼び止め事情を伝えますと、運転手さんは鍵の束をジャラジャラしながら帰ってきました。 目的の寺は、眼の前の鉄筋コンクリートに建て替えられていました。

玄関を合鍵で開けてもらいましたが、目的の“釣鐘”が見当たりません。釣鐘はもはや下がっておらず、廊下左の隅の台座に乗っていました。 苦労して釣鐘の表面を見ると、何やら漢文で書かれています。 この梵鐘は天正元年(1573)「蓮如上人が来錫(僧侶が各地をめぐり,教えを説くこと)し~3年後迷惑を被り退出し小浜に百日休息し、200人を超える人々が帰依」という内容でした。 当時の元海寺の了宗が書いたとわかり、蓮如上人が実際、小浜に上陸された証拠に出会えました。(写真)

明光寺の釣り鐘

元海寺の釣り鐘

小浜の妙光寺(本願寺派)

妙光寺は若狭湾の奥深く、両腕で港を囲むような出崎にかこまれたところの町中にありました。 「蓮如上人御留錫奮地」という石英岩の石塔が迎えてくれました。ご住職の山名暢道師が大切にされている蓮如上人の御宝物を拝見いたしました。

蓮如上人がお使いになられていました杖

蓮如上人がお使いになられていました杖

小浜時代の蓮如上人がお使いになられていました杖、中啓、数珠、御香盒、などがありました。杖は黒色で1mくらいの長い杖でしたが、差し込み式で真ん中から2つに分かれていました。 山道が多い所ですので、山中だけ継ぎ足して使ったのかもしれません。香盒は15㎝位の濃い茶色で、本願寺系では法主位の方しか持たれないという大きな香盒でした。 特に中啓は、広げた扇子の開き方が持ち手の部分が長く、銀杏の葉の様に大きく開いていました。やはり蓮如上人だからお持ちになる形状でしょうか。

蓮如上人が小浜に到着して法要や布教、得度などを自らお勤めになられたときに用いられた御品が、ここ妙光寺に残されていたのです。



 参考文献 藤井哲雄『蓮如上人の生涯』下、中山書房、2017
      

      千葉乗隆『蓮如上人物語』本願寺出版、1998
      

      朝倉喜裕『蓮如北陸路を行く』図書刊行会、1996

      

      教化研究所編『真宗概要』法蔵館、1972

      

      金龍 静『一向一揆論』吉岡弘文館、2004

      

 写真   藤井哲雄 石川京英