浄土真宗 正信寺
正信寺
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住職のこぼれ話(25)

一向一揆というのは、一向宗の門徒が領主の悪政に対して反乱を起こした、というような流れで日本史を学んだ記憶があります。 一向一揆が勃発したのは、室町中期以降一世紀にもわたり、加賀、三河、長島、越中と複数の地域で発生しました。

 加賀の一向一揆が発生したのは、蓮如上人が加賀の吉崎で布教していたころに重なります。 蓮如上人は、加賀の一向一揆の首謀者のように歴史を教える向きもありますが、吉崎、小浜の訪問によって、実は違うのではないかと思うようになりました。 今回は、中山書房発行の『蓮如上人の生涯』を執筆された、藤井哲雄先生と山田町の山田寺を訪問したときのこぼれ話と一向一揆の背景についてです。

加賀の一向一揆1

海路の要衝だった吉崎

浄土真宗に詳しい人でないと、吉崎という地名を聞いてピンとこないのではないでしょうか。 吉崎は、石川県(越前)と福井県(越中)の境を流れる大聖寺川の河口近くにあり、古くは島でしたが、今は陸つづきとなっています。

長野正孝著『古代史の謎は海路で解ける』によると、日本海側は、険しい道のりが続き、陸路による交易は盛んではなかったようです。 陸に近い地形を見ながら海岸近くの航海する、地乗りという方法によって、4~5世紀頃には、大型の百万石船など沖を行く航海が出来るようになりました。 北海道からの海産物などの交易が盛んになり、多くの船が行き交い、航路は発達していったようです。

吉崎は、百万石船の中継地として、また、漁港として発展しました。

浄土真宗の寺院は海の港や大きな河川の港など、人々の交通量が多い場所を多く拠点としていました。 蓮如上人が、吉崎を拠点として活動したのも、その流れからだったと思われます。

蓮如上人は、琵琶湖の東岸で、かつて比叡山からの圧迫や命を狙われ、命からがらに逃れたことがあります。 したがって、身の安全を考え、比叡山の影響が少ない越前地方を布教の対象にしたのだと思われます。 交通の要衝だった吉崎は、越前地方各地へ布教するには好都合でした。

私たちが吉崎御坊を訪問した時に立ち寄った山田町は、蓮如上人四男蓮誓の山田寺があったところです。 お寺の裏は崖となっていて、崖下の海は大きな百万石船が停泊できる波止場でした。 そこには、物流拠点としての米蔵があったそうですが、火災で焼け落ちてしまったという記録があるそうです。

今では草原となった空き地を歩いていると、炭化して黒くなった粒を見つけることができました。 火災で焼け落ちた黒焦げの米なのでしょう。室町時代の遺物が今でも見つかることに大変驚きました。

一向一揆の始まり

蓮如上人のもとに多くの門徒が集まった理由は、当時の守護への反発から門徒が徴税に反発したからとか、「たとい罪業は深重なれども、阿弥陀如来は必ず救いましますべし」 という浄土真宗の救済の言葉が農民の心に響いたからなどという説が伝えられています。

しかし、『蓮如上人の生涯』下巻によると、荘園制度というのは、江戸時代の身分制度と違って、強引で理不尽な徴税ではなかったようです。 守護地頭をないがしろにして租税を納めない民衆もいたようです。 「蓮如上人にカリスマ性を感じ、その威を借りて往生したいと考えている民衆がいたのではないか」と、藤井先生は著書の中で述べられています。 民衆の熱狂を、作家五木寛之氏も『蓮如』の中で、「蓮如すら圧倒する怪物」と評しました。

細川勝元の東軍と山名宗全の西軍とが争う京都を中心に全国各地で約10年余にわたる戦乱の応仁の乱(応仁元年1467~文明9年1477)が勃発します。 加賀と越前でも、加賀守護の富樫正親と結んだ朝倉孝景(東軍)と、富樫正親の弟・富樫幸千代と結んだ甲斐敏光(西軍)との戦乱に波及します。

必ずしも信心とは言えない農民の熱狂的な集団心理は、下級武士の下剋上に利用されるようになります。

富樫正親を頭とする百姓衆は、当初優位に戦いを進めていましたが、高田門徒と結んだ富樫幸千代勢力に押され、一時越中に退却しました。 吉崎御坊に百姓が集まると、富樫幸千代寄りの守護に対する納税が疎かになっていくわけですから、富樫幸千代は快く思わないわけです。 富樫幸千代に近い高田門徒は、吉崎御坊を焼き討ちにするなど、対立が深まりました。

富樫正親は吉崎御坊に集まる本願寺門徒の支持を得て勢力を拡大します。また、甲斐が朝倉と和睦して戦乱から手を引くという事態を経て、富樫幸千代は加賀から追放されます。

蓮如上人の十番目の息子にあたる実悟の『加賀一乱ならびに安芸法眼の事』によると、富樫正親は加賀の国が安堵されると、それまでの本願寺派の恩を忘れ、忌み嫌ったそうです。 そうなると、富樫正親と本願寺派の不協和音が響きます。

下間蓮崇(しもつまれんそう)の画策

教科書にしばしば記載されている限りでは、蓮如上人が百姓衆の先頭に立って反乱を率いていたイメージがありました。しかし、それほど簡単な話ではないようです。 『蓮如上人の生涯』下巻には以下のような内容が書かれています。

百姓衆は、蓮如上人を通じて、何とか富樫正親と和議をしたいから、吉崎御坊へ、洲崎藤右衛門と湯湧次郎右衛門を使いに出し、蓮如上人のパイプ役の下間蓮崇に面会したいと頼みました。

しかし、この下間蓮崇が意図的に反乱をあおるような動きをします。

二人の使いが和議を申し入れたいことを蓮如上人には伝えず、蓮如上人には「精一杯合戦したい」「力の及ぶ限り準備して戦い、加賀へ帰りたいので皆への力づけをください」と言っていたという嘘を伝えます。

それに対し、蓮如上人は下間蓮崇に、「戦いは好まないが、そのように言ってきたのでは、やむを得ない、よいようにせよ」と答えました。 しかし、下間蓮崇は使いに対して、蓮如上人は「どのようであっても、しっかりやれ」という、ご意向であると二人に申しつけました。 二人は「上人のご意向だ」というのは蓮崇の言い分で、「上人のご意向を直接会って聞きたい」と何度も頼みました。

願いもむなしく、蓮崇は「その必要はありません」と突き放しました。

同じ親鸞聖人の流れをくむ本願寺門徒と高田派門徒が加賀国の国中で争っているとのことは、とんでもない、すぐ止めさせるべきとの声が蓮如上人に届き、さっそく多くの人々に、「成敗の御書」(お文)が度々出されました。

一連のお文には、他宗派や神仏に対する誹謗や、真宗の教えを勝手な解釈で他宗の人に押し付ける行為、守護地頭に従わないこと、念仏集会での肉食・飲酒・賭博等を禁止し、悪行を叱る内容などが書かれていました。 これらを読んでみると、蓮如上人が一向一揆を首謀しているようには到底思えないのです。 一向一揆の戦乱が激しくなる前に、吉崎から脱出していることも考え合わせると、蓮如上人が一向一揆主導に関わっていないことは、間違いないと考えています。

蓮如上人が吉崎御坊からどのように脱出したかに関しては、次の住職のこぼれ話(26)で紹介します。