いまから約半世紀も前になります。昭和40年代に十二指腸潰瘍のため入院することになりました。 今では、薬で治す病気ですが、当時は入院して開腹手術をしなければなりませんでした。 病院のベッドの上で術後の痛みをこらえながら横たわったまま、井上靖の小説「敦煌」を読みました。
それから30年後の平成8年9月、中国西域、砂漠の中の歴史ある敦煌に行きました。この地にある仏教遺跡を訪ねることは、念願でもありました。
敦煌は有史以前から、中央アジアの交通の十字路でした。日本では1980年代にNHK特集シルクロードの番組の中で流れたシンセサイザーで 演奏された音楽とともに憧れや郷愁をもって日本人の心に深く刻まれてきた場所です。
特に遺跡として注目されたのは、砂漠の中に佛教者の修行のための窟や壁画が約千年にわたって保存され、現在でも管理保全されていることです。
中国の西安から敦煌へは、ジェット旅客機で北西へ約2時間40分の空路でした。当時は敦煌へ就航したばかりのジェット便でしたので、機内は満席で、 重量制限のためトランクなど大きな重い荷物は西安のホテルへ残し、カメラなど身の回りのものだけ持って搭乗しなければなりませんでした。
機内からは、ゴビ砂漠の上に1本の道路らしき細い線が延々と続き、まばらに人家や池を見ることができました。蘭州の西北180kmに聳える海抜3200mの烏鞘嶺 (うしょうれい)を北側へ超えると河西回廊に出ます。南側には800kmにわたって標高3000m~5000mの万年雪と大氷河に覆われた祁連山脈の山々が連なります。 氷河から溶け出した水はオアシスをつくり、酒泉や敦煌など、砂漠中の都市をつくっています。その景色を見たときに、ずっと遠いところに来たことを実感しました。
敦煌の地図
やがて砂漠の真ん中にある敦煌空港に着陸し、そこからホテルまではバスで約20分かかりました。中国に降りたにもかかわらず、バスには「成田空港南ウイング」 などの日本語の案内が車体についており、乗車口や案内表示は日本を走っていた時のままでした。 日本製のバスを上海経由で5台輸入して、敦煌まで陸路で輸送して使用していたと聞きました。
滑走路の周囲には、砂漠以外何もありません。空港の滑走路を歩いていますと、滑走路の両側の砂漠に小さな盛り上がったマウンドが無数にあり、 中には棒が立っているものもあります。ガイドは「墓です。砂漠の中ならどこに埋葬してもいいのです。時間がたてば真っ平になるでしょう。 しかし最近は所有欲のある人が出てきて、目印の棒を建てているのです。」と言いました。
日本では考えられないことで、これがこの地の自然な死生観かと変に感心しました。それから約20年が経過し、今はどのように変わったのでありましょうか。
莫高窟という名称の「莫」という字は“砂漠”の「漠」の字のさんずいが落ち、「莫」となったもので、これは高い崖にある石窟という意味です。 敦煌の街から南へ約18kmのところにあります。
莫高窟の下には、今では乾燥していてほとんど水が流れていませんが、名前だけは大泉河という川が流れています。 おそらく、昔は大きな川で、莫高窟の崖となる砂を大量に運んだのでしょう。 大泉河が侵食した大きく長い河岸段丘に約600の窟が約1600mにわたって、二~三段彫られています。 莫高窟の地層は「第4紀玉系礫岩層」に属し、主に砂岩、泥岩で稀に石灰岩によって構成されています。第4紀というのは、地質の時代分類で、 歴史に人類が出てきた時代を指します。恐竜がいたジュラ紀や白亜紀は第3期の後半にあたります。すなわち、莫高窟はとても新しく柔らかい地層ということができます。
莫高窟は柔らかい地層でできていましたので、僧が自ら掘ることもできたかもしれませんが、大規模な窟は陥没の恐れもあるので、素人が掘ると危険です。 ですから、窟を掘る専門の技術者がいたようです。当時は窟の一番東には、その技術者が住んでいた家の窟が並んで残っていました。
先ず四角や長方形に掘削し、規模が大きい場合には真ん中に四角柱の柱を設けました。 中には宮殿が設けられ、様々な菩薩像や仏画、色も鮮やかな諸仏像が彫刻されたりして、荘厳な仏国がつくられていました。
砂岩だと崩れやすいため、精巧な表現を求められる仏画の描写や塑像を造るのに適していません。そこで、仏画が描かれた壁は砂岩の上に漆喰を塗り、固めてから彩色されています。 また、大きい彩色塑像は窟を掘る時に予め塑像部分を彫り残し、それに粘土を盛り上げ、金泥を塗っていきます。
後に西千仏洞の観光に行った時に、窟の中に半ば崩れた独立・単立の塑像があり、作成過程が推測できる像がありました。 真中に木の棒などで荒い形を造り、それに縄状の紐を巻き付けて、その上に粘土などを押し着けて形にしていったようです。
粘土が乾いたら彩色を施します。顔など凹凸の多い場合には、下地にお面のような型を押しつけ、それに漆や金箔などを貼りつけたようです。 一部には顔そのものの型に粘土を入れて造形する場合もあったとのことです。
粱時代の「高僧伝」によると、河西一帯は「禅」修行の中心地となっていました。
仏前に供える聖水と修行僧の生活に水が必要なので、石窟を彫り修行するのに適し、河に面した断崖が修行の聖地として選ばれました。 莫高窟が出来ましたのは366年、沙門の楽尊(ラクソン)が修行のために造りました。 早朝、莫高窟の東方にある三危残山(さんきざんさん)まで来ると、祁連山脈の西端終り辺にあるゴツゴツした山々の間から、 輝く太陽の光が束になり金色の矢となって大泉河の向こうの崖に当たっていたのが、あたかも千仏が並んでいるように見えました。 これを見た楽尊は、自分も光の当たった場所に石窟を掘って修行をしようとしました。次に東から来た法良禅師も楽尊の窟の傍に石窟を掘って、 禅観を始めたのが始まりであると伝わっています。(東山健吾―『敦煌―三大石窟―』参照
莫高窟が全世界で有名になったのはAD1900年のことで、ふとしたことから第17窟が世界的な大発見となりました。
第17窟の一部の壁に歪みを見つけたのは、生活のため道教の道士となっていた王園籙(おうえんろく)でありました。 もとは湖北省麻城県の人でしたが、そこは飢饉で貧しい所で逃げ出す人が多く、彼も逃げ出し酒泉まで来て一時勤めましたが、 そこを辞め流浪の果てに敦煌に着いて莫高窟に住み着き、道士に落ち着いたのでした。窟壁の歪みを掘ってみると、17窟の中に小さなもう一つの窟を発見したのでした。 その窟は間口2.8m奥行2.8m高さ3mの小さな蔵洞窟であり、その16窟の中には各種の古文書など約4万点の経典や文書が発見されました。 彼にはその由来や価値が全く理解できず、役所に報告し、発見から2年後、甘粛省の役人、葉昌熾(ようしょうし)は、蘭州の役人が輸送の金を惜しんで 「そのまま現場で保存するよう」と敦煌の衛門に命令しました。
イギリスのスタインやロシアのペリオ等は19世紀の末頃から諜報機関を通して敦煌文書発見の噂を聞き、次々に探検隊として敦煌に来て管理人を騙し、 書籍や古写本、美術壁を剥離し、箱に詰めて大英博物館に送りました。アメリカも同様でした。ロシアは敦煌の窟内で火を炊いて窟を汚したようです。 日本も明治の末頃に敦煌のことを遅れて知り、浄土真宗本願寺派の宗主大谷光瑞が私財で探検隊を4回送りました。しかし主な物は外国に持ち出された後で、 結局、シルクロードのホータン、クチャ、トゥルファン、楼蘭などの遺跡物は、中国・朝鮮・日本に3分割して納められています。 それらが現在どうなっているかは不明のようです。
一説によると浄土教の中の主たる浄土三部経のうち、仏説観無量寿経のサンスクリット原本を探すのが大きな目的だったと聞いていますが、本当のことは不明です。 (東山健吾著 『敦煌・3大石窟』参照)
法然上人は、拠り所とする所依の経典は浄土三部経であると示されました。 それは宗旨の中心であります法蔵菩薩が五劫という長い時間の修行が完成の末、阿弥陀仏となり、その中心は仏説無量寿経の「本願」の教えであります。 この三部経とは、つぎの経であります。
「仏説阿弥陀経」(鳩摩羅汁(くまらじゅう)譯)、「仏説無量寿経」(康僧鎧(こうそうがい)譯)、「仏説観無量寿経」(嘉中畺良耶舎(かちゅうきょうりょうやしゃ)譯)です。 これらをサンスクリット語から漢字に翻訳しましたので、佛教の普及に大いに貢献しました。 鳩摩羅汁は佛教国として栄えていました亀茲国出身です。今でいえば、新彊ウイグル自治区クチャ県で生まれました。 サンスクリットや漢字に精通した有能な人物でしたから、 中国(粱州)の呂光が中国に連れ帰ったといわれています。 語学に堪能な彼は後に中国の西安に迎えられ、大雁塔に納められた膨大なサンスクリットの経典を翻訳しました。 石窟は造営された時代の特徴により、前期、後期に分けられます。 また壁画や塑像の内容から、
①経変(お経の内容を絵図化して表現した物)
②本生・故事(お釈迦さまの前世の様子の物語)
③仏伝
④仏像
⑤飛天
⑥供養人(有力者や富豪などが窟を寄進し、その生活や功労を絵にしたもの)
⑦図案(いろいろな仏が座禅している姿を枡目の中に描いた千仏や、図柄の組み合わせられたもので絨毯の絵柄の図案を絵にしたもの)
などに区分されています。