浄土真宗 正信寺
正信寺
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住職のこぼれ話(5)

今回の第5話で白川郷と浄土真宗について親鸞聖人と嘉念坊(かねんぼう)の関係を、そして、次回の第6話では、白川郷で浄土真宗の鍵を握る内ヶ島(うちがしま)氏とその居城帰雲城(かえりくもじょう)について紹介します。


親鸞聖人と嘉念坊

浄土真宗に帰依した嘉念坊

親鸞聖人が罪を負わせられて越後に流された頃、承久の乱を引き起こした後鳥羽上皇の第2王子の子が、承久3年(1221)に8歳で天台宗寺門派園城寺(現滋賀県大津市)の僧になったのが嘉念坊善俊(かねんぼうぜんしゅん)です。 父は善性で、さらにその子である後鳥羽上皇の孫は、はじめ「道伊(どうい)」と称していました。

新編「白川村史―下巻」年表によれば、寛喜3年(1231)、「嘉念坊善俊、箱根で親鸞聖人に面謁受法し、嘉念坊の道場坊号を賜る。」とあります(嘉念坊善俊19歳)。

嘉念坊と白川郷

飛騨における浄土真宗の歴史が書かれた『岷江記(びんこうき)』には「宝治年間、(1247~1249)に親鸞の弟子である善性の門下にあった、 嘉念坊善俊が郡上白鳥から白川郷鳩飼(はとがい)鳩谷(はとがや))に移り住んで布教を開始し、 名主層を中心に信者を獲得、次第に人々がここに集まって鳩谷道場が作られた」とあります。 嘉念坊は郡上白鳥から庄川の渓谷下り、鳩谷に着いて、そこで道場を営み教化活動を通して飛騨真宗の基礎を築き照蓮寺門徒の往寛の道でありました。 これを「北国通路と呼び、戦国時代以降、強大な勢力を保有して飛騨真宗を率いたのは開基の嘉念坊です。後年、これが高山市の真宗大谷派別院となっています。

鳩谷道場

鳩谷道場(白川村史より)

関東の教化から京都に戻る親鸞聖人

親鸞聖人は嘉禎元年(1235年)62歳の頃、約20年に亘る関東教化より京都に帰られたと思われますが、お帰りになった理由や京都への道筋などが直接描写された詳しい資料は見当たりません。 残された資料より、親鸞聖人ゆかりの地をつなぎ合わせて推論していきます。

親鸞聖人は稲田(現在の茨城県笠間市)より渋江と金町を往復して布教する間、渋江に住む信者の清重の館に赴く途中で、光増寺住職の法海と出会いました。 それがきっかけで法海は親鸞聖人の弟子となり、隋信坊と名乗り、親鸞聖人より光増寺の寺号を授けられ、花押を据えた阿弥陀如来画像が授けられたと記録されています。 (『親鸞と青砥藤綱』2005年刊-東京下町の歴史伝説を探るより)光増寺は、葛飾区東金町にあります。

葛飾区宝町の西光寺には、親鸞聖人がお出かけになる途中、当地にお立ち寄りになり、村人に説法され、その時、松の幼木にお袈裟をお掛けになって休息されたという伝説が残されています。 後に、浄財を集めてこの松を“宝木”と称して、宝木塚町を作ったそうです。地名改定の際、この宝木が「宝町」となったといわれます。(『親鸞と青砥藤綱』葛飾区郷土と天文の博物館刊行より)

神奈川県にも親鸞聖人ゆかりの地が伝えられています。

覚如上人の『口伝抄-8-』に、親鸞聖人は笠間から鎌倉まで一切経校合のため往還したとあります。聖人はしばしば笠間から鎌倉に往来されていました。

相模国倉田村(現戸塚)永勝寺には、親鸞聖人54歳の時、「国府津(こうづ)に7年おわします内にこの寺に3年居したまえり」(『遺徳法暢集』巻3、宗誓撰1710年刊)という記録が残っています。 聖人は56歳の頃より稲田の草庵から国府津の真楽寺に来て、同寺の開基、性順が天台宗から真宗に転派し、法名と寺号を聖人から授与され、さらに聖人はここに7年間留まって布教されたということです。 真楽寺の海岸端には、親鸞聖人が念仏を広めたといわれる「勧堂」も現存しています。

『白川村史』下巻に「親鸞帰洛の途中美濃に布教する」とあります。帰洛の途中、箱根でゆかりのあった嘉念坊善俊を訪ねたのかも知れません。

これらを勘案すると、笠間→葛西(東京下町)→鎌倉→神奈川→箱根→静岡→三河→飛騨→滋賀→京都という経路がおぼろげながら浮き上がってきます。

それらの地には多くの弟子たちの道場がありました。後に、それらは寺院となり、その多くは現存しています。

【参考文献】
新編「白川村史」上中下巻―平成10年3月31日、白川村刊行
「消えた戦国武将」加来耕三著―平成23年12月31日、メディアファクトリ新書

白川郷

白川郷の景色