今回の第4話は、石川県白山市の鳥越城です。
白山市にある手取川は急流で有名で、源義仲が木曽から上洛の時に急流を渡るのに武士が手を取り合って渡ったことから、 手取川というそうです。その上流にある「大日川」との分岐点に相対して、「鳥越城(標高312m)」と「二曲城(フトワゲ又はフトゲ城・標高268m)」 がありました。私は平成19年7月、東京浅草・皆応寺の藤井住職と地元・願慶寺の吉峰住職同副住職様のご案内で、ここを訪れました。
手取川の流れ
鳥越城は一向一揆の最後の砦といわれ、砦的防備施設が設けられた鳥越城を中心とした白山麓の要塞でありました。 総大将の鈴木出羽守は白山麓門徒を指揮して、最後まで加賀一向宗の信者が城を死守しました。 城主の鈴木出羽守は、鈴木(雑賀)孫一の一族といわれ、鉄炮に習熟していたといわれる人です。このため防御陣地として、鳥越城は難攻不落の城となっていきます。 天正8(1580)年4月に、今は金沢城となっている金沢御坊を織田信長の家臣柴田勝家が攻略し、柴田軍はさらに白山麓に侵攻しました。手取川を遡って来る柴田軍を相手に、 鳥越城主・鈴木出羽守が指揮していました。白山麓の本願寺門徒は勇猛果敢に戦い、そのため鈴木出羽守は防戦のため二曲城を強化し、柴田勢と戦います。 一揆勢は、手取川の地形を生かした巧みな戦術で柴田軍を撃退しました。天正8(1580)年8月のことでした。
復元された鳥越城址
鳥越城は昭和52から54年の発掘調査の結果、本丸、二の丸、三の丸、後三の丸と五つの郭、三つの腰郭と中の丸で構成されており、井戸やトイレも備えていたことがわかりました。 枡形門前には、小鍛冶跡が検出されました。火縄銃も2丁、大きさの異なる鉛玉やそれを鋳造する道具とともに出土しました。 中世城郭調査では前例のない金の延べ板の破片も出土し、そこに筋のある刀傷があるため、細かく切って支払いに充てたものと考えられます。 酒を醸造したと思われる大甕や、染付皿、盃、すり鉢や日常生活用品も出土し、特に西側の石垣には古式穴太積みと思われる石積みが認められ、 築城に関わった技術者集団の存在が確認されました。城下にはあやめが池や谷川、空堀もあり、自然の地形をうまく利用した郭で、 後には織田軍が前二の丸から後ろ二の丸の区域を中心に、城を増築していました。城跡に立つと周囲の展望がよくきき、 手取川の下流から柴田軍が攻め上がってくるのがよく見え、また一方の後方は白山とその山を越えた越後や小松への逃亡ルートも望むことができ、 交通の要所でもありました。二曲城は鳥越城跡附城ともいわれましたが、二曲城にはもともと鈴木出羽守が住んでいました。 貞享の頃、二曲村にいた十与右衛門の書上帳には、お姫様があでやかにお立ちになると、美しく長い黒髪が背を伝わって下になお二曲もたまったということから、 それが地名になったと記されており、「フタワゲ→フトゲ」と変わっていったと思われています。両城跡とも発掘調査が行われ、上記のような遺構や出土品は多く、 それらは麓の「鳥越・一向一揆歴史館」に常時展示されています。昭和60年に両城とも国の史跡に指定されました。
発掘された鳥越城址
鳥越城址遺跡全景
天正6(1578)年、顕如上人の石山本願寺と織田信長が約10年の長い間「石山合戦」を戦い続けた折、山麓門徒を督励し米や鉄砲の救援と一層の忠節を要請した書状が伝わっています。 その宛名には、山内惣庄中と並んで鈴木出羽守と書いてあり、実際、山内惣庄の指揮者であったことがわかります。 「山内」とは白山麓地域の通称で、「惣庄」は、その地方の本願寺の門徒組織を指し、その構成員の坊主・門徒は「山内衆」と呼ばれていました。
天正8(1580)年閏3月、石山合戦は顕如上人の石山退場をもって終止符を打ちましたが、北陸方面の一向一揆はその後も織田軍に抵抗し、柴田勝家との間で戦闘が続行され、山内衆も抵抗しました。 しかし鳥越城側があまりにも強いので、柴田勝家は調略をかけ、鈴木出羽守と息子の右京進と次郎右衛門を休戦の名目で呼び出し、現・松任駅前公園にあった松任城で謀殺します。 主を失った鳥越城は指揮権と士気を失い、天正8(1578)年11月に落城。その後も山内衆の抵抗は終わらず、天正9年、同10年の2カ年の間、2度にわたり山内衆は鎮圧されます。 天正10年3月1日には手取谷の山野に大規模な残党狩りが行われ、300余人の本願寺門徒が残雪を朱に染めながら磔刑に処せられ、一向一揆は最終的に終結することとなりました。 その後、白山麓は約3年間の間、荒れ地のままで、その後数年にわたり人影が見られなかったと伝承されています。従ってそれまでの諸資料や文書類は残っていません。 「加賀は百年間、農民の持てる国」「真宗の王国」といわれた加賀は一向一揆と共に日本歴史の中、ここで全く終焉しました。
天正10(1582)年6月3日に本能寺の変で信長が没すると、豊臣秀吉、徳川家康と時代は変わりますが、白山麓はほぼ前田利家の加賀藩が支配することになります。 かつての本願寺門徒は村を復興し、たくましく白山麓で生きぬくこととなります、前田利家は山内衆の扱いに随分配慮したようで、その結束の強さ、気の荒さは現在にも引き継がれています。 鳥越村は町村合併によって、現在は白山市となっています。 合併するまで、鳥越城跡では毎年8月に家康の時に東西に分かれた両本願寺から僧侶が参加して、「一向一揆祭り」が行われていたと聞きました。
一向一揆祭りの提燈のかかる鳥越城の枡形門