浄土真宗 正信寺
正信寺
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住職のこぼれ話(3)

今回の第3話は、浄土真宗信仰の篤い近江の国、滋賀県の善立寺(ぜんりゅうじ)です。


善立寺(ぜんりゅうじ)

金森御坊(かねがもりごぼう)

平成8年、善立寺を訪れました。京都駅からJR東海道本線の快速で東北方向へ3つ目の守山駅で下車し、琵琶湖に向かって徒歩で約20分。善立寺は琵琶湖の東岸にあります。 かつてこの地域は環濠も備えた寺内町として栄え、織田信長から一向一揆のあと「楽市楽座」として公認されました。その中心に「金森御坊」があり、その真向かいに善立寺があります。

金ケ森(現守山市)は文明(1469~1468)の頃、「当所、二百余家の郷にて戸々頗る貧しからず」(専空 『江州~途中略~善立寺之物語』)の中で述べているように、相当の規模の街がありました。

金森御坊

現在の金森御坊の様子

戦国時代の要衝

琵琶湖の周辺は、古代から歴史の積み重なった古い土地柄で、多くの古墳や鉄の精錬所跡、豪族の土地、寺院などがあり、東海道、北陸道などが交わる交通の要所でした。 この辺りには、平安仏教の真言宗や、特に比叡山天台宗の寺院が多くありました。そんなところに真宗寺院の勢力が伸びていきました。 室町時代から戦国時代には信長の台頭が著しく、琵琶湖の東岸は京都へ上る道筋になっていて、信長の上洛に対して多くの一向一揆がそれに対抗しました。

比叡山の焼き討ち

蓮如聖人は本願寺住職を継職して、「さびさびとした本願寺を再建・興隆すべく」、真宗の布教線を各方面に伸ばしていきました。 この結果、琵琶湖東岸では天台宗から真宗寺院に転派する寺院が増え、上納金が減ったことに腹を立てた比叡山衆の僧兵が蓮如上人を狙って襲いかかりました。

蓮如上人は本尊の掛け軸を巻いて自作の竹筒に収め、百姓の籾殻小屋に籾を頭から被って難を避けたことが再三ありました。 現在もその小屋の跡が「御かくれ跡」として残されています。

御かくれ跡

蓮如上人御かくれ跡

善立寺の道西

当時、金ケ森に道西という浄土真宗の信者がいました。

文明11年83歳で寂した滋賀県堅田・本福寺の法住という僧とともに、蓮如上人より十字名号を下付され、法住・道西と蓮如上人との関係は深いものでした。 道西は、応永23年(1417)頃から90歳で死亡するまでの72年間、親鸞聖人の教えを求め、終生蓮如上人から強く感化を受けました。

蓮如上人から「道西は法然の化身なり」とも称されるほどでした。蓮如上人のご臨終に立ち会い、葬儀では調声も務めました。

苦菜法会(にがなほうえ)

比叡山の焼き討ちにあった後、文明13年(1481年)山科本願寺を再建することになりました。 屋根を茅で葺く際に、蓮如上人も茅を下から上の屋根に投げ上げる作業に加わりました。 茅は根元が重いので、蓮如上人が茅を投げ上げると根が逆さになり、逆さのまま葺いたと言われています。

その上棟式を祝って、善立寺の檀家衆が「苦菜」を蓮如上人に差し上げたのが、毎年3月6日に行われる「苦菜法会」となり、これは現在まで約500年続いています。

苦菜は、冬期などで他の青菜がない時期であっても、雪の下でも早く生えてきます。 これを摘み集めて何度も煮て、甘味を付けてお仏飯のような筒状にして調理し、御斎(おとき)としてほかの御飯や汁、煮物、香の物などとともに箱膳で供されます。

苦菜法会

苦菜法会の様子

注:この苦菜法会への参詣者はとても多く、現在は事前予約が必要で、有料です。(平成8年時点)

信仰が厚く勉学熱心な道西は、蓮如上人に『正信偈』の解釈を懇願しました。それが『正信偈大意』として残されています。 蓮如上人はその後書きに「金森の道西が自身の学問のためにと、絶えず望み、しきりに所望する意がしりぞけがたいので」と書いた理由をのべています。 現在も「苦菜法会」では、この正真偈大意が拝読されています。

また、蓮如上人の法話を、大勢の信者が家庭でも長く忘れないように手紙の形で頂きたいと多くの金森の民衆が念願し、それが現在でも「御文(おふみ)」の形で残されています。 「当流聖人の御勧化の信心の一途は~」で始まる「筆始め(ふではじめ)の御文」(長録4年、1460年)の原本は、今でも善立寺に保存されています。

御文の文中に「在家止住(ざいけしじゅう)のやから~」表現されている民衆は、家庭に留まって在家として信仰をして、一ケ所に留まり農業などして移動しなくなったので止住といいました。 念仏道場形式の二間を貫いた部屋には、蓮如上人の名で、半紙に書かれた箇条書きの在家止住に向けた生活規範が張り出されていました。