浄土真宗 正信寺
正信寺
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住職のこぼれ話(28)

私も年を取りました。これまで、私は何と4回も救急車のお世話になりました。一昨年のことですが、大好きな温泉での入浴中に溺れかかって、死ぬ思いをいたしました。 お恥ずかしい事ですが、その経験をご参考までに皆様のお話しいたします。

死ぬのは怖くない?

浴槽で溺れてしまった

箱根湯元の温泉ホテルで会議が始まる前に、ひと風呂浴びようと浴室に向かいました。 体を洗ってから、もう一度風呂に浸かろうと思いました。その浴槽は、縦5m、横10m位くらい、深さ1mくらいでした。 それが厚めの板で仕切きられていて、浴槽の下は繋がっていました。二つに仕切られている浴槽の片方には先客が二名いたので、反対側に入りました。 浴槽から出やすいように手摺のパイプがありましたので、その手摺につかまって出ようとしたのですが、もうその時から私の感覚は狂っていたのでしょう。

気が付くと温泉風呂の底に足が着いていません。私は横になりつつ、パイプの手摺を握って、足をバタバタさせてもがいていますと、湯面が左右の耳から両顎の鼻の孔すぐ下まで、ひたひたと上がって来るのが判りました。 沈んで行きながら、もがきました。

その時、隣の湯船につかっていた二人がこれに気が付いて飛んできました。 「なにをしているんだ」と言って、私を風呂から引きあげようと私の手を掴みましたが、68kgの私の身体があまりにも重かったのか、濡れていたためか、なかなか上がりませんでした。 「誰か連れの方がいませんか?」と聞かれました。「上の部屋にいます」と答えるのが勢一杯でした。その後、私の意識が遠くなりました。

極楽浄土の入口を行き来する

気が付くと私は丸裸で、すぐ横のタイル床に寝かされて、「救急車!救急車!」という声が微かに聞こえました。 大勢の浴衣姿の仲間が私を囲んでいて、誰かが旅館の浴衣を体の上に掛けました。記憶は、また無くなりました。

救急車であれば、過去の経験から、がたがたと揺れたり、救急救命士さんが血圧を測ったり、何か忙しく働いているはずなのに、周りの状況が全く分かりません。 私は、ただ、空中に浮かんでいるようでした。

そのうちに、ふわりと浮かんだ私の身体は、だんだん上にあがっていきます。 「おや?おや?」と不思議に感じていると、遠くに、明るく輝いている場所のあることが見えました。その前には、やはり輝いて真っ直ぐこちらに向かって細長く伸びる道がありました。 しかし、私が死んで「お浄土」に行くのなら、道の奥の輝いている場所の前に、綺麗なお花畑がないので、「これは極楽浄土ではないな」と思った瞬間、浮かんだからだが沈んでいくような感じがして、救急車のベッドの上に横たわっているのが判りました。 回りの状況は以前と変わりません。静かでした。

しかし、しばらくすると、また、ふわりと感じて、ベッドから浮かんだようになりました。 すると、また明るく輝いている場所がみえました。先ほどと同じように、「多分これは極楽浄土だ。その前には、美しい花々が咲き乱れているはずだ。」と思った瞬間、私の身体はベッドの上に下りる状況が繰り返されました。 「変なことが起こったなぁ」思ったときには、救急車は音もなく走っています。夢を見ているような状況でした。

箱根湯本近くに幾つかある病院は、救急搬送の受け入れを断られ、約一時間かかる「南足柄郡の県立病院がやっとOK」ということを救急車の方が言っていました。 「そこに向かいます。」という声が耳にはいりました。その声の外、私の周囲には何も以前と変化は感じられませんでした。しばらくすると、また、浮上している感じがしました。

記憶が戻り、現実になりました。がたがた揺れています救急車は、南足柄病院に到着しました。 病院の緊急処置室に搬入され、「やれやれ」と思いましたが、救急車での経験は一体何だったのか不思議に思いました。

風呂での事故は意外に多い

2014年日本の風呂の事故で亡くなる人の数は約19,000人です。交通事故で死亡した人の数が4,373人なので、約4倍です。非常に多いのです。

お風呂に入る時は、ヒートショックがないように、脱衣室の温度と浴室の温度に大きな温度差がないようにしてほしいと思います。 また、心臓に疾患のある人は長風呂に注意されるようにしてください。意識が朦朧としたときには、湯船が浅くても、転倒時には命が危ないということです。

「生かされた」と感じた

救急車の中で血液検査をしたのだろうと思います。病院の先生は、検査結果のデータを一瞥して、白血球の値が二分の一、その他心拍数、血圧など、いくつか異常値もあると首を傾げました。 血圧は245mmHgで通常130に比して異常に高く、心拍数は145拍/分でした。私はペースメーカーを使用していますので、その設定値60拍/分より2倍以上の異常値だったので、驚きました。 まさに、死ぬ寸前でした。

先生は首をひねりながら、脚気の検査でよく行う棒で膝蓋骨の下をたたきました。全く反応はありません。 立つことは全くできませんでした。ベッドに横になり、しばらく時間をおいて、やっと立つことができたので、私は椅子に移動しました。 先生は「家族に電話で迎えに来てもらってください」といい、ここで、やっと、「助かった」のだと確信できました。

しかし、実は何かによって「生かされた」のだと言うことも、その時に感じました。

死ぬのは怖くないのかも知れない

私は温泉で死に直面し、何の恐怖も苦しみもなく、むしろ暖かい新しい楽しい世界に入るのではないかと感じました。 それは、本能的に感じたのだと思います。しかし、綺麗なお花畑がなかったことが、この世の側に戻ることを考えるきっかけになり、あの世に行くことを思いとどめさせたのでしょう。 苦痛を感じたり衰弱したりして、死に直面したその時には、多分痛みを和らげる脳内麻薬のセロトニンのようなもの分泌され、それが働いて、死の恐怖を消しているのではないかと思います。

苦しんで死に直面していている人の思いは、その現場に立ち会って、看病している人でも解からないと思います。

2014年9月14日(日) に、NHKスペシャルで立花隆さんが臨死体験の研究を発表された番組を観ました。 臨死体験をしたアメリカ人に、インタビューしたときのエピソードは、まさに、光に包まれた阿弥陀様の来迎だったり、三途の川を渡るような経験をしたりしていたことを思い出しました。 仏教徒でない人も、死に際してこのようなものを見るのかと思いました。 立花隆さんは、人の脳には、死の恐怖を和らげるだけでなく、死に際して幸福な感じがするように、本能的にプログラミングされているのではないかと番組で語っていました。

私はまさに、その話を証明するような体験をいたしました。

もう少し、生かされていようと思います。