浄土真宗 正信寺
正信寺
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住職のこぼれ話(21)

最近は街角で白黒の花輪を見ることもなくなってきました。お通夜の時に、長い行列を見ることも稀になりました。 葬儀は家族や身内だけで行うようになり、関係のあった人たちで送るという風習がなくなりつつあります。

葬儀と同じように、お骨に対する感覚も時代とともに変化していくものではないかと感じています。

お骨の話

遺骨の考え方の変遷

昔読んだイザヤベンダサンの単行本に、東アジアの遺跡の発掘現場で、アルバイトの日本人大学生が、化石人骨を発見して発掘する時、骨を見て気分が悪くなった、体調を崩したという記述がありました。しかし、日本人学生以外の作業員には何もなかったと書かれていたことを覚えています。このように日本の若者とそれ以外では、遺骨に対する感じ方が違っていたというのです。

しかし、日本では20年以上前から山手線の網棚に、骨壺の忘れ物があることが噂になっていました。これは、意識的に置いて行ったものか、ただの忘れ物かわかりません。葬儀ができないという経済的理由だけではないようです。直木賞作家の藤本義一さんが75歳の時に書かれた『歎異抄に学ぶ人生の知恵』PHP文庫2006年の本の中に「昔テレビの報道で取材したとき、大阪環状線の車中の遺失物には骨壺が多かった」と書かれています。

都市を中心に、日本人の遺骨に対する意識に何か大きな変化が起こってきているのではないかと思われます。また、海への散骨や木の根元に遺骨を埋める樹木葬を希望されるケースも増えつつあります。

浄土真宗開祖の親鸞聖人は、死の床で「それがし閉眼せば、加茂川に入れて魚に与うべし」と言われたそうで、これが散骨の例として紹介されています。当時の京都では、壬申の乱で多くの人が亡くなりました。人が亡くなると加茂川に捨てることが通常でした。当時の河原には、堤防もなく、大抵井草や茅などの雑草が生い茂っていたので、河原や川の流れが死体で埋まって流れが止まり、この処理に苦労したといわれています。葬儀の挨拶で、仏教の輪廻の思想から「故人は草葉の陰から」という表現がありますが、残念ながら当時の事情は異なるようです。

親鸞聖人の息子・善鸞の子如信上人(1235:嘉禎元~1230:正安二)のご遺骨は、陸奥国金沢(茨木県久慈郡大子町上金沢)法龍寺の境内にある銀杏の樹の根元に埋葬されました。この銀杏は、如信上人の死後に覚如上人がお手植えされたものであり、銀杏の木の根元に埋葬されたというのは間違いと思われます。木の根元に高さ163㎝の墓石が置かれていて、その下あたりに遺骨があると言われています。しかし、今は銀杏の木が大きく育ち高くなり根も盛り上がって、どこに埋葬されたか解りません。これも、今でいえば樹木葬といえるでしょう。

戦争や天災で亡くなった方の遺骨

アメリカ映画「ローマの休日」で有名なイタリア・ローマのスペイン広場から広い階段を降りて、噴水のある低い横道を東に進み、大きな道路を超えた所にキリスト教カトリックのサンタマリア・デッラ・コンチェツィオーネ寺院があります。ここは通称、「骸骨寺」といい、世界中から観光客が訪れています。

そこは昔、深い谷間でしたが、ローマ人は昔から人が死亡すると、その谷に遺骨を長い年月投げ捨てたので、遺骨で谷が埋まったのです。その谷を掘ると、約4千体もの遺骨が出てきたのです。掘った跡にキリスト教カトリックの立派な寺院が建てられました。この寺院の地下にはいくつもの部屋が造られており、まず廊下にはいくつも人間の手の骨を繋げて飾りつけられた立派なシャンデリアが天井から釣り下げられています。私がイタリア旅行した時の同行者の中に整形外科のお医者さんがいて、「これは指の○○の遺骨である」と細かく説明してくれて、一同びっくりしました。さらに、部屋には大きな西洋式暖炉に薪がきれいに積み上がっていると思いきや、近寄って見ると、それは人間の大腿骨がきれいに積み上げられていたのです。さらに頭蓋骨が重ねられていて黒い眼孔がこちらを眺めている様子には、ゾーツと背中が寒くなったのを覚えています。すべて異様な感じでした。さらに部屋の真ん中には大きな四角い掘り炬燵が切られ、そこでは着衣の人や、頭からオーバーを纏った子供が火に当たっているのかと思いましたら服の中は女の子らしい子供の骸骨でした。壁や天井なども、各種のお骨で飾られています。写真撮影禁止でした。

私を含む日本人観光客が非常に増加し、怖いもの見たさか、確実に大きな変化が起こっているものと思われます。こんなことができるものかと思いました。しかし一階の受付には骸骨で装飾された部屋の骸骨写真カードが売られていました。西洋では遺骨が見世物になっているのです。ほかにも類似の教会があるそうで、人間の遺骨はかつて捨てられていたのです。

これは日本でも同様で、江戸時代には江戸でも人が死ぬと小船に乗せて東京湾に捨てられていたといいます。鎌倉の由比ヶ浜には大きな遺跡があり、人間の遺骨が寺の法要後に海岸に多く埋められていました。海岸に捨てていたのです。遺骨の近くには、日本で初めて発見された縦板に細長の板が釘か何かでT型になっている質素で簡単な位牌らしきものが発掘され、私はこれを展示会で見ました。こうしてみると、現在の状況は昔帰りして海岸や海などに遺骨は捨てるものと思っている人びとが増えてきたと感じられます。

昔は遺骨を捨てていた

日本の縄文時代には人の寿命は30歳台で短かったと考古学者は言っています。発掘された遺骨の中には縄文人女性の若い遺骨があり、それは出産が大きな障害となっていたのです。女性に沿うように赤ちゃんの遺体や顔の上に重なるように犬などペットも一緒に埋葬されている例が多く発掘されていました。土偶にもお腹が大きいものがあります。(山田康弘著『生と死の考古学・縄文時代の死生感』)

また、争いで死亡したと思われる甕棺内の遺骨では、腰骨に槍の先が刺さった例があります。これらは単独の場合が多いのですが、集団で埋葬されている場合もありました。戦国時代の戦闘で死亡した遺体はまとめて大きな穴を掘り、大きくマウンドのように積み上げられて葬られています。

ヨーロッパでも事情は同じようで、ベルギーのブリュージュの南にナポレオン皇帝とイギリスなどの連合軍が苛烈な戦、いわゆる“ワーテルローの戦い”(1815)があります。戦いの後には、拳銃や背嚢、鉄砲など多くの戦闘遺物や馬の死骸、戦士の死体などが残されました。参加軍はフランス軍7万2千、英国軍6万8千、プロイセン軍5万が参闘しました。その結果、行方不明・死傷者6万7千人の遺骨や捨てられた武器類などが山と積み上げられて頂上には「ライオン像」が置かれています。3万㎥もの大きなマウンド状である“ライオンの丘”が造られ、そこにある急な長い階段を登れば、周囲360度の展望で広い戦場を見渡せます。世界中から戦死者を追悼する人や観光客で賑わっています。麓には戦争博物館と実践のパノラマ展示館があり、そこでは広い各戦闘の様子が説明さています。私もライオンの丘で戦闘の様子を見分しました。

また、大きな地震や災害で多くの人が被災し死亡した場合、まとめて穴に葬られた跡もあり、遺体には名前もなく誰だかわからないケースが多くありました。しかしその反対で、死者の髪を一部切って、付箋を付けて埋葬されたケースもありました(三河大地震)。

ヨーロッパでは14世紀と18世紀にペストが流行し、カトリックの寺院や町角には亡くなった人々の慰霊碑や塔・柱が広場の中心に建てられています。

昭和19年頃、浅草本願寺前の道を松葉国民小学校への通学途中で、道路脇に防空壕を掘っている場所では、掘った土砂の脇に遺骨が入っている炭俵が幾つも並んで列をなしていました。中には、なんと頭蓋骨の俵もありました。掘っている人に聞きますと「大正12年の関東大震災の際、亡くなった人びとを埋めた溝」ということでした。道の約15㎝下には、大正時代の遺跡が埋まっている地層があることに驚きました。地層は下に行くほど古い地層となることを実際この時知ったのでした。

江戸・東京は、過去の大火事や大地震など災害が起こるたびに、身元不明の被災者が地下に埋葬されていたようです。(以下、『江戸の町は骨だらけ』鈴木理生著より)。築地本願寺近くの方がビルを建てるため地下を掘ったところ、地下から誰ともわからない人骨が多く出てきたそうです。これはテレビでも放映されましたので、ご覧になった方もいらっしゃったでしょう。有楽町から大手町あたりは江戸時代には東京湾の浅瀬で、築地は名前の通り浅瀬を埋め新しい土地を造成したものです。ほかにも造成地があり、地名から知ることができます。東京に地下鉄を造った時には、江戸城のお堀の土手内で以前お寺の墓があった場所から多くの人骨が出てきたそうです。江戸はあまりにも多く人骨が出てきたので、ニュースにならなかったそうです。

死生観と遺骨

庶民のお墓の歴史は、庶民は江戸時代の直前ぐらいからでしょう。裕福な人や高貴な上流階級だった人のお墓は現在も残っていますが、庶民や下層の人々の墓は残っていません。村墓や武士屋敷の庭などには自家墓地がありましたが、現在は国民の一般の人々の霊園や墓地は増加してきています。中には、最近お墓を造れない人々が結構多くなってきており、さらに親族の遺骨や火葬場焼却後の遺骨を引き取らない親族の人々も増え続け、将来に多くの問題を残しています。現にテレビニユースで川崎市や横須賀市のお役所では、これら無縁に近い骨壺が増加して困っていると放映されました。

縄文時代の死生観は、生まれてから短い命で死を迎え、又生まれ変わるという30年の循環する生死感があったのでしょう。誰だれは祖父の生まれ変わりだと云う場合がありますが、そこには循環の考えが自然にあったものと思われます。

親鸞聖人が開祖の浄土真宗で正依の聖教の一つ「仏説大無量寿経」では、次のように説かれています。法蔵菩薩が仏にならんと四十八条の誓願を立て、五劫(劫が五つという長い時間)をかけて修行し、その願を達成して「阿弥陀仏」となられました。特に第十八番目の誓願は王本願と言われました。「たとえわたしは仏となることを得ても、もし十方の衆生が、至心(心をこめて信心歓喜して)に信楽(法を聞いて信じ心おのずから悦びを生ずること)し、我が国(浄土)に往生しようと思い念仏すること十念のものまでが、若し往生できないようであったならば、正覚をとらない。ただし、五逆を犯せるものと正法を誹謗するものとを除く。」(至心信楽の願)(増谷文雄著『無量寿経講話』)。訳文=もし私が仏になったら、十方の一般の人々が、本当に本願を深く信じて極楽に生まれたいと願って念仏をいっぺんでも称える。若し極楽に到着できないならば私は仏にならない。(以下略)もっと簡単に言えば「本願を信じ念仏をいっぺんでもとなえて浄土へ行かれなければわたしは仏にならない」となります。

さらに親鸞聖人は『教行信証』の最初に「二種の廻向あり。一つには往相、二つには還相なり。」と書かれています。往相と還相とは「念仏で極楽に生まれ仏になり又人間の目には見えないが、娑婆に帰って人々を救済する、」ことを意味します。往相と還相、これは縄文人の生死の循環と同じ考えだと私は思います。死んで仏になり、目には見えないけれど、また娑婆に帰って、他の周りの人々を救済するという循環の思想だと思います。つまり縄文人の再生の思いと、往相・還相の考えは人生とは何かというのと同じものと言えるでしょう。

戦後の団塊世代が高齢化を迎え、これからはこの生死の問題、老後の問題など、特に遺骨問題に重要な問題を抱えています。長命を生きることや、葬送や遺骨処分の問題は今後ますます大きな問題になることでしょう。その結果、現代の人は先祖帰りして、死んだら遺骸は捨てるという思想になっていくかもしれないと感じます。