浄土真宗 正信寺
正信寺
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住職のこぼれ話(20)

小さい頃、私は音痴でした。学校での音楽の成績は「乙」。 母が心配して、ある時「口を大きく開けて、大きな声を出して歌いなさい」と言いました。その通りにやりましたら音楽は「甲」となりました。 しかし、現在でも「私は音痴だ」と思っています。 幸いにして、声明学園の先生は、母の教えと同じで、お経を読むときは「怒鳴るように大きな声で唱えなさい」と指導されました。 その指導に従ったおかげで、現在でも大きな声は出ます。

このような私が音楽について語るには、役者が不足しているかもしれませんが、私の音楽体験と宗教に関係する話題を綴ってみようと思います。

宗教と音楽の記憶

お経と音程

日本の浄土真宗のお経は、佛滅後2百年頃、西インド生まれの馬鳴(アシュヴァゴーシャ、めみょう)が、釈迦の教えをインドの街角で歌うように節をつけて大乗仏教を歌ったのが始まりと伝わっています。 馬鳴菩薩は『大乗起信論』『大荘厳論』『佛所行讃経』などの作者です。これらを聞いて牛馬も感動して落涙したそうです。(Art Wikiより)

比叡山天台宗の慈覚大師円仁(住職のこぼれ話(12)参照)が中国五台山の竹林寺などで出会った声明を持ち帰り、大原にお経のための常行三昧堂を建てたのが浄土真宗の声明の始まりです。 奈良仏教の南都声明に始まり、お経は天台宗、真言宗などから発展し、後に浄土宗、真宗など各宗派の声明に引き継がれ、現在まで仏教各宗派独自の声明に繋がっています。 声明の音階は中国の韻律に基づいています。

最近は歳のために私は導師の役を副住職に譲りました。導師が女性ですと困ったことになります。女性の声は男性より音域が高いため、脇導師の私は音程が合いません。 私の声の高さに導師が合わせようとすると女性の声の音域が合わず、男性の私に合わせようとすると、途中で音程が1オクターブひっくり返ってしまいます。 ある時、読経の前に相談し、娘は「1オクターブ下の声で合わせなさい」と言い、読経の前に発声を合わせる練習を少しやりました。 幸い導師の娘は絶対音感の特技を持っていますので、私は通常の声で1オクターブ低いやや小さい声を出し、娘は1オクターブ高い声を出します。すると音程を合わせることができました。 以後、二人で読経するときには、このようにしてやっています。

戦時中の音楽の記憶

私がこどもの時代は戦争中でしたから、軍歌などは大きな声で怒鳴るようにやっていましたが、威勢がいいので周囲から苦情は出ませんでした。 5年生の頃学校の音楽は、先生がレコードをかけ、B29の爆音や戦闘機のエンジンの唸りの音を聞き分けることもありました。

戦時中に、ラジオ番組の冒頭でいい音楽が聞こえてきました。 それに続けて「戦地の皆さん」という呼びかけがあり「海外の戦地で戦っている日本兵の皆さんに日本の様子をお伝えします」というアナウンスがありました。 それは管弦楽で、いかにも懐かしく、心を安らかにする響きがありました。 その時はそれがどんな音楽か、解りませんでしたが、そのテンポの良さや、暖かい呼びかけは、戦地で戦う多くの日本の人々に郷愁と感銘を振りまいたことでしょう。 それは軍歌とは全く質や響きの全く違う音楽でした。

戦後になって、いろいろな外国の音楽が溢れました。テンポや曲想から、その音楽が「ジョニー・ハイケンスのセレナーデ」という曲の出だしの部分らしいということが分かりました。 その後の日本ではこの曲は多方面で用いられ、JRの駅の発着音などにも使われて愛されました。この曲を聞くと田園風景や田舎の風そよぐ景色などが頭に浮かびます。

引用による音楽や感情の表現

戦後は、西洋のクラシック音楽を懸命に聴くようになりました。ベートーヴェンをはじめバッハなどのバロック音楽が好きでした。しかし、音楽の深い内容を理解したつもりになったのですが、もともと音痴ですので、違っていたかもしれません。

中世、西洋音楽はキリスト教の聖歌から始まったと記憶しています。住職仲間の先輩によると15世紀前後のキリスト教では、修道士セラノのトーマス(1250年没)が死を意味する「怒りの日」という聖歌を選定され、 これが方々で引用されたそうです。ベルリオーズが作曲した「幻想交響曲」の最後の楽章でも、これが何回も用いられていると先輩は話され、CDでその部分を聞かせてくれました。

このトーマスのフレーズは、リスト、チャイコフスキー、サンサーンス、マーラー、ラフマニノフ、パガニーニのほか、有名な作曲家が作品の中に引用して使っています。それは西洋音楽では死のイメージを表し、ヨーロッパの人々には、死を前にした人間の悲しさ、恐ろしさ、嘆き、哀悼の感情などが呼びおこされるのでしょう。

日本の宗教音楽でこれに匹敵するフレーズがあるということを聞きません。しかし、先代の住職は微妙な節の上げ下げ、声の長さの変化などで、聞いている人には悲しそうに聞こえると言っていました。ですから、「お通夜」の時には気持ちを込めてお経を称えるようにと教えてくれたものです。

また、その先輩は、蓮如上人がこのトーマスと似た引用方法を多用しているとも指摘していました。

蓮如上人がお作りになられた「御文」(御文鈔)の一つである「白骨の御文」は、浄土真宗では葬儀のときに必ずと言ってもいいほど拝読されています。その言葉を聞いたご遺族は、涙を流されることが多いのです。 「白骨の御文」は、実はトーマスのメロディーが方々で引用されたのと同じように、全体の半分以上が存覚上人の著作『存覚法語』より引かれたものです。しかもその大半は元々、承久の乱(1221年)に敗れて隠岐の島に18年間も流され,絶海の孤島で暮らした後鳥羽上皇が世の無常を嘆いてお作りになられた『無常講式』によるものです。 ですから孫引きです。蓮如上人はそのなかの「あさまし」を「あはれ」とし、「あはれというもなかなかおろかなり」と変えられて、何とも言いようのない、切実な表現で綴っています。(藤井哲雄著『蓮如上人の生涯』下巻249ページより)

西洋音楽との感性の違い

私が会社の役員を任期で辞めた時のことです。

幹部が送別会をしてくれました。その最後に役員の一人が「皆で送別の歌を歌おう」と言って、モーツァルトの「AveVerum Corpus」を歌うことを提案しました。私はこの歌をよく知らなかったので、その時は皆の声に口パクで合わせました。 家に帰ってこの曲の歌詞を調べたところこれは、カトリックで用いられる聖体讃美歌であり、聖体とはキリスト教のミサで用いられるパンと葡萄酒のことでした。その歌詞は次のようなものでした。

「めでたし、生母マリアより生まれたまいしまことの御身体。人類のため、まことに苦しみを受け、十字架上に犠牲となりたまい、御脇腹を刺しぬかれ、水と血を流したまえり、臨終のもだえに先立ちてわれらの楯となりたまえ。~以下略」、これはキリストの死を讃える内容で、モーツァルトが35歳の“死の年”に作曲され、 アンダンテ・ソステヌートのゆっくりとした美しい曲でした。しかしこれは送別の歌としてはたして、相応しいものでしょうか?私は違うのではないかと感じました。

西洋では、日本の感情とはやはり違うように受け取られるのだろうと思います。そして日本ではこの内容を送別の歌だと皆思ったのでしょう。西洋音楽の旋律はヨーロッパ人には最も相応しい感じを与えるものが、日本人が聞いてやや同じ感情を持つものとそうでない音楽とあることに気づきました。 このように、同じ音楽でも受け取る民族や人のその時の情によって、それぞれ受け取り方や感じ方が違うことを強く感じました。