正信寺住職の、釈京英です。
私が今まで訪れた中から、印象の深いご旧跡を紹介させていただきます。今回が第2話となります。
関東で起こった親鸞聖人の門流は、関東の地から各地に伸びました。その流れの一つが関東の横曽根門徒 で性信房が開基の坂東報恩寺 (茨城県水海道市)が中心で、ここから近江の国・瓜生津 (滋賀県八日市市)や木部(滋賀県中主町)に多くの信者ができました。 この瓜生津門徒の聖空が、 吉野川の支流である秋野川沿いに秋野川門徒を結成しました。また秋野川沿いには龍上寺、 願行寺、西照寺、 立興寺が造られ、やはり吉野川の支流で秋野川の1つ上流である円治川沿いの飯貝 の本善寺、さらに奥吉野には浄称寺、徳善寺などの真宗寺院があります。
秋野川門徒が念仏を継承した場所である秋野川の河口からすぐ右岸の、少し山を登ったところに立興寺があり、眺めのいい場所に山門があります。 ここは『歎異抄』の著者と言われる「唯円大徳」 が開基の寺院です。しかし、この寺は創建当初は草庵にすぎませんでした。
福唯円(平次郎)はもともと、常陸国大部の生まれです。兄の大部の平太郎と一緒に、 14歳の平次郎は茨城県笠間市稲田に滞留中であった当時63歳の親鸞聖人の弟子となりました。 その後、聖人が上洛されるので、唯円は19歳で上京し、京都の聖人の禅室でご給仕されました。41歳の時に「唯円」という法名を賜り、兄の要請で常陸の国の 河和田(茨城県水戸市)に坊を結び、専慶寺 (現在の報仏寺)の開基となりました。唯円は高才弁舌の誉れが高かったと伝えられています。
1262年に親鸞聖人が亡くなられた後、唯円は河和田に帰郷し、また、文永11年(1274年)、53歳の時、河内・安福郡の慶西坊 から「足下慈愍を以てかの国を化せよ」(あなたはいつくしみあわれみの心であの国を教化しなさい)と頼まれ、 下市町の秋野川のほとりにある有縁の地に庵(現在の立興寺)を結んで開基となり、布教されました。
しかし、関東では善鸞事件や蒙古襲来後の世間不安定の中で、色々の異安心の事件が各地でおこり、唯円は聖人の教えを取り違えるような事柄に苦慮され、 1286年から1289年の間頃、唯円およそ65~66歳のころには異を嘆く『歎異抄』の中身ができつつあったものと思われます。 唯円は親鸞聖人が亡くなる時まで聖人のすぐそばに仕え、直接親鸞聖人の日常にふれていたれたためでしょうか、耳の奥底に聖人の言葉が練られ 積み重ねられ熟成されており、それが名文で書き残されていたのでしょう
そののち唯円は亡くなる直前に吉野から一時わざわざ関東を訪れますが、正応元年(1288)、67歳の老体にも拘らず再上洛し、 本願寺3代目となる覚如聖人にお会いになりました。覚如聖人は教学の上でまだ完全に納得されないものがあったのでしょうか、 本願寺2代目の如信上人とともに唯円坊を京都に招かれ、疑問点を質問されました。そして、この時の内容が覚如上人の著作『口伝抄』 に生かされました。この約1年後、使命を果たした安堵や労苦などからか、唯円は立興寺において正応2年(1289年)2月6日、68歳で往生されました。
唯円の墓は、立興寺裏の山裾から少し坂を上ったところに現存します。台座石の上に約2mくらいの石塔があり、かすかに「開基唯圓法師墓」と読めます。 最近は、熱心なご旧跡探訪の高齢者がグループが墓参りに訪れるといいます。(写真参照)
午前8時頃、立興寺のご住職に面会し、ご本堂で吉野や唯円と立興寺についてうかがっていたときに、壮年と思われる樵 のような姿の男子がすたすたと本堂にお参りに来て、御本尊の前で正座して念仏を唱えた。帰り際に、私たちの横を「難しいことを勉強するな!ただ座って念仏をすればいいんだ!」 と怒鳴るように、たしなめるように言って通りすぎた。住職は「いいんだよ、いいんだよ」と声をかけた。この人は、日頃そのように理解しているのかもしれない。 この時分、朝、働きに行く前に菩提寺の本尊に参るという習慣はかなり珍しいと、逆に感心しました。
唯円の寺ということで、ご住職は当然ではあろうが、熱心に唯円や歎異抄に関する色々な資料、出版物などを収集され、研究もされていました。 将来は、研究結果をご本にまとめたいと意気込んでいらっしゃいました。
桜で知られる吉野は京都からは遠いのですが、蓮如上人は足しげく吉野に通われました。吉野は木の国であり、山々に多くの杉や桧などが生えており、 秋野川の上流から桜の吉野に至る杉峠の脇には「蓮如上人お手植えの杉」があり、現在も高さ約30mくらいの杉の大木が茂っています。 また、蓮如上人は樹木を伐るために吉野の杣山(そまやま)に入られたのでしょう。後に吉野衆は山科本願寺建立の本柱50本を山から伐りだし、 吉野川に流し大阪湾を経て淀川の山科へ運ばれました。