浄土真宗 正信寺
正信寺
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住職のこぼれ話(13)

もう10年も前になりますが、蓮如上人の旧跡を訪ねた時に聞いた、妙好人「よつ女」の話を綴ってみたいと思います。

妙好人「よつ女」

蓮如上人が往還した八木町

平成18年9月6日、新幹線京都駅で近鉄京都線・橿原線に乗り換え、近鉄大和八木駅で下車しました。

奈良盆地の中心に位置する橿原市八木町は、京都や伊勢、吉野、難波へ通じる昔ながらの街道が交差し、歴史を感じさせる要衝です。 八木町を通って京都から吉野へ南北に抜ける街道は道幅も狭く、道の両側にはこげ茶色の板塀の旧家が立ち並んでいました。 蓮如上人が布教のために吉野へ出掛けるときには、この道をたびたび往還されたといわれています。

八木町の南西に隣接した今井町は、司馬遼太郎がこよなく愛したことで知られています。

   金臺寺の地図

私が訪れた時も、時代遅れに感じる色使いの看板や、今では数少なくなった丸い郵便ポストが目に止まり、懐かしいような安心するような街の情緒と趣を感じました。 時がゆっくり流れているような気がしました。

街道から横道に入ると古刹の金臺寺(金台寺)があります。寺の周辺の道は車が通れないほど狭く、近くに駐車場もないので参拝には結構な距離を歩かなければなりません。

古い赤いポストのある街角

古い赤いポストのある街角

「よつ女」のいわれ

了妙(りようみょう)という女性は、八木町のあたりで大きな造り酒屋をしていた孫左衛門の妻で、「よつ女」と呼ばれていました。 彼女は若くして夫に先立たれ、しかも跡取りであった息子や、その嫁まで死別し、更に酒屋も没落するという悲惨な目にあっていました。 残された崩れそうな酒蔵で一人糸を紡いで、悲しく七十余歳まで過ごしていたといわれています。

「了妙」という法名は、蓮如上人が授与したといわれています。

糸をつむぐ「よつ女」

糸をつむぐ「よつ女」の掛軸

蓮如上人との出会い

よつ女がいつものように糸を紡いでいると、旅姿の蓮如上人が炎天下の中、一杯の飲み水を求めて、よつ女に声をかけました。 縁がすこし欠けた茶碗に井戸の水を汲んでよつ女が急いで差し出すと、蓮如上人は押し頂いて最後まで美味しそうに飲み干したそうです。 これが縁となり、蓮如上人が吉野へ赴くときには立ち寄って、念仏の唱え方、意味を説明されるようになったようです。

そして、蓮如上人に教えを受けたよつ女は出家し、酒蔵は「蔵の道場」と呼ばれるようになりました。

金臺寺の床の間には、今でも髪が丸く束ねられて置かれていました。 よつ女が出家の際に頭を丸めたときに切り落とした毛髪といわれています。

よつ女の毛髪

よつ女の毛髪

金臺寺の床の間に飾ってある遺品から、蓮如上人が地方に布教のとき、どんな所持品をもっていったのか、食べ物はどうされたのかが偲ばれます。 蓑傘や予備の草鞋、杖、数珠、巾着のほか、衣や筆などを見ることができます。

直径約30㎝、深さ約8㎝と大きめで、縁がやや丸くなっている鉢も、厳かに白い布の上に展示されていました。 金臺寺の住職に聞いたところ「この鉢の素材は鉄に真鍮が混じったもので、非常に薄い作りになっています。後世にひび割れを修復した跡が見えますが、間違いなく“蓮如上人の鉄鉢”です」とのこと。 蓮如上人は托鉢して頂いた食べ物をこの鉢でいただいていたのでしょう。

蓮如の鉄鉢

蓮如の鉄鉢

お念仏の順序

ある時、よつ女は「毎日糸を繰りながらお念仏を唱えています」と上人に褒めてもらおうと声を掛けました。 これを聞いた蓮如上人は「それは間違いで、順番が逆である。糸を繰りながら念仏を唱えるのではなく、念仏を唱えながら糸を繰るのが正しい念仏の唱え方である」 と教えられたそうです。よつ女はそれ以来、まことの念仏の道に目覚めたと言われています。

「蔵の道場」と呼ばれてきた場所は、宝暦3年(1753)に、金臺寺となり今日まで続いています。