平成27年3月17日(火)「横浜そごう」で2度目の円空展を見にいきました。私は30年にわたり円空様について書籍や写真、展覧会で書や円空仏に触れてきました。また、円空仏の作仏に挑戦してきました。
円空様は、岐阜県羽島市中町中生まれで、出家時期は分かっていませんが、天台宗の僧ではないかと言われています。 7歳の時に母を亡くし、菩提を弔うにはどうしたらよいか、お母さんの魂はどこに行っているのかと、大人たちに聞いて回ったと伝わっています。 円空様は母一人、子一人の母子家庭だったようで、たった一人残されたその悲しみはいかばかりかと想像されます。
残念ながら、若いころの記録は全く残されていないので、どこで、どんな修行をしたのか分かっていません。 さらに、5cmくらいの小さい「木端仏」や等身大の仏像を鑿と鉈で彫った独特の円空仏と言われる彫刻技法をどのように学び、身に着けたかも謎に包まれています。 観音菩薩を鉈で彫った彫像が割合多いのは、早く母を亡くした心の空虚さや、母への憧憬から、優しくて、微笑んだ生母の顔を観音姿に刻んだのではないかと思います。
私の彫った円空仏1
円空様が32歳〈寛文3、1662年〉のときに彫った、郡上市神明神社にある3体の像が、現在分かっている最初の作です。 円空様が40歳(辛亥11、1671年)のとき母の33回忌を勤め、生誕地に観音堂を建立し、同時に11面観音など十数体彫りました。 この33回忌を務めたことで、生母への心の整理ができたのでしょう。その後の修行の目的として生涯彫刻仏を2万体作る願を建てたと言われています。
41歳から修験道の大峰山をはじめ、法隆寺、北は北海道から愛媛県など全国の神社・仏閣をまわり、作仏をして巡られました。 志摩市では、600巻の『大般若経』修理を依頼され、その作業の終盤に全巻の表紙絵を描きました。その中でも『妙法蓮華教』提婆達多品第12の絵は特徴があります。 前段に「悪人成仏」後段に「女人成仏」が説かれていて、円空様は自分の母親が「成仏」していると信じながら描いたと想像できます。
『大般若経』第1巻の表紙絵には、2匹の龍と1人の童女を書き、さらに、「幾たびもたえても立る 法の道 九十六億 すえのよまでも 円空」と末尾に詠みました
私の彫った円空仏2
我々はこの世に生まれ、死んでいきます。生んだ親が責任をもってあの世に引き取ってくださいます。 大自然の法則、お働きです。円空様は一生をかけてこれを求め、彫刻として追い続けました。
円空様の諸行無常、諸法無我の心を感じ、これからも機会があったら彫刻を続けていきたいと念じています。
私の彫った阿弥陀如来