今年は戦後70年の節目にあたる年です。昭和7年生まれの私の戦争体験は幼少のころのものですが、この遠い記憶をたどり、後世に伝えていければ思います。
昭和20年3月8日、小学校6年生だった私は集団学童疎開先の宮城県秋保温泉から中学受験のため東京に向かっていました。空襲警報が発令され、 灯火管制と言って列車の光が車外に漏れないように桟窓(今でいうブラインド)を下したまま上野駅に着きました。
3月10日が東京大空襲と言われていますが、3月9日から3月10日未明にかけてのB29の襲来と記憶しています。
昭和20年3月9日夜遅く、再び空襲警報が鳴り響きました。今は無い仁丹塔近くの浅草松清町の自宅で起こされました。 やがてB29の猛爆撃が始まりました。歩道に掘った防空壕の中から見上げますと、私の頭上に真っ直ぐ迫るプロペラが4発の大型機の機影の姿が見えました。 仰角30度くらいの機体から、バラバラと黒い爆弾らしきものが落とされたと思う間もなく、近場から火の手が上がりました。 これは大変なことになると即感しました。さらに多くの機影が低く迫ってきました。機体から黒い塊が細かく分かれて頭上に投下される様子が見えました。
上野に通じる道路の右側にある銭湯が火達磨のように炎上しました。裏の通りの家の屋根からも炎が上がって、延焼し始めました。 間もなく防空団の班長と思われる人が怒鳴り声で「屋根を見ろ!屋根を見ろ!」と叫び声をあげて、なぜか水をかけた布団を引きずりながら走って廻わりました。 切羽詰まった凄まじいこの声は今でも脳裏を離れません。
これを聞いた父(先代住職)は、母と弟に声をかけ上野方面へ逃げるより、反対の雷門・吾妻橋へ避難したほうがいいと判断し、4人一緒、一塊になって広い市電道路へ向かいました。 すでに寿町の家屋からは火炎が吹き上がり、市電の線路面の上に沿ってその炎は横に伸び蛇の赤い舌がチョロチョロ伸びるように路上に這いだしていたので、炎の合間を縫って走りました。 少し遅れたら命は無かったでしょう。本願寺に奉職をしていた父は、どの道筋を通ったら安全か即時に判断できたのでしょう。阿弥陀様のお導きを感じます。
当時のの浅草の地図 <拡大図>
すでに、隅田川沿いの松屋前は避難の人でいっぱいでした。吾妻橋方面も危険だったので、仕方なく手前の小さい公園に留まりました。 そこにも約10人位の見知らぬ人々が集まっていました。なぜか父はラジオとやかんをブラ下げていました。のちのち、このやかんが水を汲むのに大いに役に立ちました。
松屋の隅田川沿いは下駄屋さんが並んでいたと記憶しますが、はるか遠くの一店舗に火炎が上ったと見えると、その火は「あっ!」と思う間もなく連なるお店をトンネルの中を走るように伝わり、 目の前の民家からに炎が吹き上がりました。すぐに大小の火の粉の塊が公園にいる私たちに吹きつけました。
皆背負っている救急袋、リュックサックを捨て、一人がリーダーとなり傍の木の枝をへし折って皆に配り、背中を合わせて輪になって、飛んでくる火の粉をこの枝を使って皆で叩き落とすこととなりました。
現在の吾妻橋
雨のような火の粉が降る中に、真っ赤に燃えた10cm角の柱の一部が唸りをあげて飛んできて弟の首にベッタと張り付き、弟は悲鳴を上げました。 すぐに剥がし、リーダーがキンカンの液を塗り込みました。このおかげで、後日、跡もなく治ったのには非常に驚きました。
役に立たないラジオの箱をすぐ横の隅田川に捨てに行きました。 川面は薄暗かったのですが、すでに隅田川に飛び込んだ人々がなぜか皆背中が重なり合って浮いている上に、さらに捨てられた雑品でいっぱいでした。 その上にラジオをポトンと落としました。3月9日は暦では春とはいえ、川からは冷たい風が吹き付け、反対側からは火災の熱い風と煙が渦巻いて暴風となり皆を悩ませました。
B29の轟音、焼夷弾の爆音と燃え盛る炎やそれによって巻き起こった風のゴーゴーという音に包まれ、その中で木の枝を振り回し続けて3月10日の朝が薄暗く明けてきました。 すぐ眼の前にあったモルタル3階建ての建物が火の勢いをいくらか防いでくれたことが幸いし、何とか生きながらえることができました。今まで火の粉を叩き落としていた枝に葉や小枝はなく、ただの棒になっていました。
皆の顔は目、鼻、口の周りは黒く煤け、お互いに「クロンボになった」と言って笑いころげました。辛いことを乗り切って緊張の糸が切れると、人は笑うのでしょう。
そのことを象徴するように、延焼を防御していた前の建物の窓ガラス一枚が「ピーン」という高音とともに割れました。腹にこたえる低いボーンという音とともに炎の塊となりました。 中は蒸し焼き状態だったのだと思います。
びっくりして全員ばらばらになって逃げました。 コンクリート作りの公衆便所に一時避難し、4人はさらに走って、開いていました宮風の屋根と赤い柱の地下鉄浅草駅入口に逃げ込み、地下のトンネル内を歩いて「田原町駅」から地上に出ました。 地上の惨状を知らないまま。
通りの米屋の前にあった燃えた米俵から焼き米となってしまった米粒を鉄兜に掬って持ち、全焼した我が家を探しました。 溶けた屋根瓦の間に、瀬戸物でできた「わかもと」の黄色いビンを見つけ我が家とわかりました。手がかりとなるものはそれだけでした。
あたりは水道栓から水が噴き出ているのを除いて、全くの静寂でした。煙で橙色の太陽は灰色の空にぼんやりかすんで見えたうえ、普通見えないはずの上野駅のホームが墨絵のように遠くに浮かんでいました。 あたり一面廃墟でした。この残酷な状況の中で一家全員無事だったことは、今思い返すと、普段からお念仏を称えている父などを阿弥陀様が守ってくださったとしか考えられません。
松葉国民小学校(現在の松葉小学校)にたどり着きました。 軍隊が守ってくれていたことと学校の周囲に民家が強制疎開によって空地になっていた為、学校は焼け落ちませんでした。 校庭への出入り口は閉められていましたが、後で聞いたところ、焼夷弾の火災で焼け死んだ人の山を隠すためだったとのことでした。 学校に着くまで焼け死んだ人に一人も遭わなかったことは不幸中の幸いでした。学校にはすでに大勢の被災者が詰めかけて各教室に分かれて座っていました。 鉄兜の焼き米を、「夕べから何も口に入れてない」という人に分けてあげたところ「このご恩は一生忘れません」と感謝されました。
その後、やかんをもって水を貰いに小使室(現在の用務員室)に行ったところ、兵隊さんが飯盒で昼食中でした。 私を手招きして「坊や腹が空いているだろう、こちらに来い」と声をかけられ、飯盒の蓋に自分のご飯を分けて、味噌汁を掛け「早く食え、人には言うな」と言いました。 私も他の人に悪いなと一瞬思いましたが、すぐにかきこみました。なんとおいしかったことでしょう。天からの恵み、阿弥陀様からの賜物と感謝しました。
罹災証明を貰い、被災者となって、母の実家に帰るため、東京駅に向かいました。 驚いたことに皇居側の丸ビル前は土嚢を盛った壁がずっとあって、軍事施設のようでした。そこを抜けて、二重橋前に進み、遥拝し、天皇陛下に東京を離れる挨拶をしました。
その夜も東京駅は空襲がありました。鉄道高架の下で一夜野宿し、東海道線の汽車に乗りました。 超満員、すし詰めだったので、小さかった私は人に挟まれ足が浮き、横に傾いたまま豊橋駅に着きました。 私たちの乗った名古屋駅行きの東海道線は豊橋駅で運行打ち切りとなってしまいましたが、幸い、名鉄三河線が運行していて母の実家のある西尾駅に夕方たどり着くことができました。
西尾につくと、昭和19年の東南海大地震や昭和20年の三河大地震(震源地三ヶ根山)の惨状が残っており、道路の一部はひび割れ、多くの家屋は傾いたり潰れたりしていました。 このことは日本軍の情報統制のため、新聞やラジオで報道されず、惨状に驚かされました。 実家は昔、味噌造り商家でしたので建物がしっかりしており、柱にはすかいが打ち付けられ倒壊を免れていました。 しかし、建物は傾き、家の中を移動するにも板を跨いだり、くぐったりする生活でした。
私は、叔母が手続をして西尾の中学に入学することになりました。
東京大空襲は、私の人生に大きな傷跡を残しました。すべてを失ったその後は苦労の連続でした。遠い記憶ですが、次の世代の方に語り継いでいく必要があると感じます。
しかし、東京大空襲で本願寺が被害を受けることがなければ、先代の住職は戦後も本願寺へ奉職し、今の正信寺はありません。 また、東京大空襲で一家が死んでしまっても今の正信寺はありません。歴史に「もし」は禁物ですが、運命の不思議を感じ、阿弥陀様のお導きを感じます。
末筆ですが、戦災で亡くなった方々のご冥福をお祈りするとともに、70年間戦火を交えることがなかった戦後日本の平和に感謝いたします。