浄土真宗 正信寺
正信寺
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住職のこぼれ話(30)

江戸時代、幕府から出された宗門改めにより庶民はどこかのお寺の檀家になるよう定められました。今でいう檀家名簿、すなわち宗門改め帳はキリシタン摘発に利用されました。しかし、江戸時代に一向宗が薩摩藩、人吉藩では三百年にわたり禁教とされたことは、キリシタン弾圧に比べ知られていません。

藤井哲雄東本願寺学院教授と私は平成17年6月 羽田東京国際空港から鹿児島空港へ向かいました。

薩摩の隠れ念仏

一向宗弾圧の理由

加賀藩(現在の富山県地方)で、室町幕府守護だった富樫正親が北陸吉崎に本山を置く一向宗の農民達に滅ぼされ、百姓衆が約100年間にわたり“百姓の持てる国”として自治したことに、諸藩の大名は危機感を持ったようです。

佐賀のキリシタンが弾圧されたときも、一向宗の門徒がキリシタンに加勢したという噂がたち、薩摩藩や相良藩は恐怖に感じました。その結果、一向宗は天下国家を乱すとして取り締まりの対象になりました。 さらに、藩に収めるべき年貢も、お布施や上納金として本願寺に流れたといわれ、役人の気分を害したようです。

藩内に浄土教が広まると、藩主を頂点とするピラミッド型組織の維持する藩の体制が危うくなると感じたのではないかと思います。いかなる身分の者も阿弥陀如来の前では平等に救われる浄土真宗の教えは、為政者には不都合に感じたに違いありません。

隠れ念仏の行われた時代と場所

隠れ念仏は薩摩藩(現鹿児島県と宮崎県南部)と相良藩人吉地方(熊本県)で行われました。

秀吉が九州征伐をした15世紀頃から明治9年頃まで約300年間もの長い間、一向宗と呼ばれた浄土真宗の九州布教に対して、キリスト教と同じような弾圧が行われました。

藩からの弾圧に対し、信仰に生きる百姓や下級武士などの民衆は浄土真宗の教えを捨てようとしませんでした。多くの門徒は地下に隠れ、あるいは為政者に解らないように工夫して、念仏を続け信仰を守りました。

シラス台地に穿たれた念仏洞が世間に知られるきっかけは、終戦後に婦人会の会長をしていた加藤キミという方が、このかくれ念仏洞の存在を紹介し、町の文化遺産になったことのようです。隠れ念仏がいかに極秘だったか、伺い知ることができます。

シラス台地を利用した念仏洞

鹿児島には、霧島、桜島、開聞岳の火山帯があります。数世紀間にわたり、その大噴火が地形の変化や人間活動に多大な影響を及ぼしました。桜島などの大噴火は火山灰によってシラス台地を造り、火口の陥没で姶良湾を形成しました。現在でも桜島の噴火に伴う火山灰は鹿児島地方に莫大な損害を与えています。

隠れ念仏の信者は、柔らかく掘削が楽なシラス台地の特徴を生かして地下に穴を掘って、信仰の拠点を築きました。そして、藩の統治が及ばない海上航路を利用して、一向宗の本尊(阿弥陀如来の像や絵像)や聖典(お経やお文が書かれた文書や手紙)を運び込みました。

鹿児島市内の標高300mにもなる柔らかいシラス台地に、入口が簡単に解らないように洞窟を掘り、本山からの布教師も加わって集会を行なっていました。山の下には見張りを立て見回りの役人が来ると、下から細い糸を引っ張って講の参会者たちに知らせました。知らせがあると、信者は一斉に抜け穴から逃げました。

私が入った洞窟には、一段高い場所に棚を作り、仏壇として利用した跡がありました。本尊や蝋燭立てなどがあったようです。隅に一升ビンが転がっていたので、講の後に酒を飲んだのではないかと思います。

「ガマ」と呼ばれていた洞窟は、明治時代に数百確認されています。その一部は、第2次世界大戦中に防空壕としても利用され、現在では、歴史遺産として観光の対象ともなっているものもあります。

鹿児島市に残っている念佛洞の幾つかに実際に入って見ました。「花尾かくれ念仏洞」は、小高い崖に三角形に亀裂が入った岩穴で、シラス台地の急な山道を約200mの登ったところにあります。入口は小さく巧妙に造られ、念仏洞とは気づきません。入口に訪問者の氏名を記入するノートが吊り下げられていて、それを見るとかなりの人が訪れているのがわかりました。

その外にも、「立山(タチャマ)のかくれ念仏」、「ぬすと穴」、「清水桜元のかくれがま」、「下土かくれ念仏」、「都迫(ドンサコ)の念仏かくれ窟」、伊集院町の「下土橋かくれ念仏窟」が残っています。いずれも人里離れた山中や、あるいは竹藪の中、あるいは人家裏の人目につきにくい場所にありました。 桃園恵真氏によると講の最小単位は「コマ(講間)」といい、そのコマの集会のことを「お座」が立つ「お座を開く」と呼び、リーダー(番役)が中心となっていたそうです。集会があった時には、オトキ(斎=食事)もあったようです。

隠れ念仏の門徒達が利用したのはガマだけではなかったようです。本尊や名号などを家の倉庫や天井裏、土蔵の二階に隠すだけでなく、柱を上手に刳り貫いて、目立たないように蓋をしてその中にも隠しました。

天候の悪い日であっても、要所に見張りを立てて役人が来ないか監視しました。少しでも役人の気配を感じると、すぐにその情報が開所に伝えられ、本尊、仏具、聖経などを天井裏や洞穴などに速やかに隠し、息をひそめて次の知らせを待ったといいます。このように工夫して、念仏を続け、本尊を拝んでいました。

水俣市に残る薩摩部屋

鹿児島の水俣の源光寺を訪ねました。本堂の奥下に「薩摩部屋」という特別の空間があり、そこには薩摩の役人が不意に踏み込んでもわかりづらい構造なっていました。そこは、宿泊できるようにもなっていて、木製の枕がありました。天井は低く、抜け道もありました。 住職の話では、この寺でも念仏の時には鹿児島からの要所に見張りを置いたそうです。そして、門徒は山を越えてきたり、船を漕いだりして、密かに参集したそうです。海路で参拝した門徒のお布施の表面には、塩が吹いていたといいます。

人吉市の楽行寺には、唐傘のような形の棒の中に経本を隠したり、まな板を刳り貫き、蓋ができるよう細工された中に、本尊の絵像が納められたりしているものが残されています。竹を刳り貫いた中に納められた阿弥陀如来像、五劫思惟像(鋳造)、絵伝や絵像そして多くの名号、和讃・お文・正信偈・国書記などが現在でも残されています。

人吉藩の隠れ念仏

一方、人吉藩の一向宗弾圧は薩摩藩より古く、弘治元年(1555年)に遡ります。この年、相良晴広は分国法「相良氏法度」に、一向宗(浄土真宗)の禁止を追加しました。「人吉市史」によると、大永6年(1526年)7月に浄土真宗の真幸院(現・宮崎県えびの市及び小林市)を治めていた北原氏の人吉城攻めに原因があるのではないかとしています。

貞享14年(1687)、念仏講に属していた10代や20代の若者が法度違反の罪で捕まりました。名を言わさされるより死を選ぼうと思い立ち、屈曲した川の土手の上に杉苗を植えたのち、14人が離れないように体を数珠繋ぎに縄で結び、川に身投げしました。

ここに「14人渕」記念碑が建てられました。若者が植えた杉は今でも大きく生い茂り、その木立を見ると心が熱くなります。

人吉市の楽行寺には、唐傘のような形の棒の中に経本を隠したり、まな板を刳り貫き、蓋ができるよう細工された中に、本尊の絵像が納められたりしているものが残されています。竹を刳り貫いた中に納められた阿弥陀如来像、五劫思惟像(鋳造)、絵伝や絵像そして多くの名号、和讃・お文・正信偈・国書記などが現在でも残されています。

終りに

現代は、信仰の自由が保障されています。しかし、浄土真宗は過去に禁制だった時代が長くあったことを知り、そのような時代が再び来てほしくないと切に思います。 そして、弾圧があったにもかかわらず、身を隠しながら念仏を続けた門徒の堅固な信心にも敬意を抱きます。

薩摩藩は明治の新政府に中核となる人材を多く輩出しました。その結果、明治2年に神仏分離令が発令されると、他藩より徹底的に廃仏毀釈が進み、仏教寺院が破壊されました。藩主島津家の菩提寺で、歴代藩主の墓地がある福昌寺も廃寺となり、現在でも復興していません。 鹿児島県で現在までに復興された寺院は、島津家が弾圧した浄土真宗が一番多いというのは、皮肉な現実だと思います。



                                                      
参考文献『薩摩のかくれ念仏』同研究会法蔵館 2001年
『隠れ念仏伝承の旅』向坊弘道本願寺出版社 2005年
『薩摩のかくれ念仏』ミュージアム知覧1999年
『街道をゆく3』司馬遼太郎朝日新聞社 2008・2018年
さつまのかくれ念仏桃園恵真図書刊行会 1986年
殉教と民衆米村竜治同朋舎 1987年
仲覺兵衛顕彰次行調査報告書ミュージアム知覧2002年