浄土真宗 正信寺
正信寺
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住職のこぼれ話(29)

10年以上前になりますが、浅草にある東本願寺学院の藤井哲雄教授と私は、妙好人の言い伝えのある場所を巡る旅を続けていました。今回は、妙好人として知られる大和の清九郎に由緒のある場所を訪れた時のお話を、思い出すままつづらせていただきたいと思います。

大和の妙好人

まず、大和の清九郎についてご紹介いたします。諸説あり、内容に関しては異論もあることをお断りさせていただきます。

貧乏で荒れた清九郎の生活

清九郎は延宝6年(1678)奈良県高市郡矢田村に生まれます。父の死亡後、母の実家丹生谷村に移住し、篤信の母の感化を受けますが、幼少時代に下市町の呉服屋に丁稚に出されます。

清九郎は無学で文盲でしたが、生まれつき頭が良かったため、自分の境遇に嫌気がさし、馬喰(ばくろう)という、牛馬の売買をする人の仲間に入ってしまいます。30才頃まで馬追いをしながら、酒、博打(ばくち)などに明け暮れる無頼の生活を過ごしました。 その後一家は鉾立村に移住し、清九郎は妻となるお梅を娶りましたが、お梅は娘を残して死去してしまいます。このため、清九郎の生活は乱れ、心はすさみ、お梅の死亡により寂しさが つのり、半狂乱となってしまいました。

清九郎の回心

日ごろの良くない生活の自己反省をし、母の勧めもあって光蓮寺の和尚さんのところへ行くように言われ、清九郎は住職に相談をしました。

住職は清九郎に待機説法をして、清九郎は一人ぼっちではなく、不幸でないことを気付かせるようにしました。 そして、最も重要なこととして、阿弥陀様の存在を何回も何回も説き聞かせました。母も善知識としてお浄土を説き、お聴聞が大事なことも教えました。

光蓮寺の住職や付近の寺の住職などに導かれて、清九郎は次第に落ち着きをとりもどし、酒もやめ、博打もやめ、自己を振り返るようになりました。 観無量寿経にある阿闍世王の回心のように人が変わり、生活も変わりました。

そうして、清九郎は長雨が晴れ上がったような明るさに満ちてきて、心の豊かさを持つに至りました。 正信偈に「大悲无倦常照我」とあるように、飽きることなく、常に清九郎を照らしてくれている阿弥陀様がおいでになるということを信じて疑わなくなりました。 日々の暮らしは相変わらず貧しかったのですが、皆は、「えらく変わったもんじゃのう」と清九郎の姿を見て思ったのでした。

回心した清九郎は、山に落ちている樹々をまとめて、京都の本願寺のお仏飯を炊く薪として背負って長い道のりを運びました。 また、年老いた母を背負って戸毛村から山や吉野川を越え、飯貝の本善寺に蓮如上人のお話をお聴聞しに行きました。 そこで、本善寺の宝物である鶯籠を見て、鶯の鳴き声「ほうほけきょ」は「法を聞けよ」と鳴いているのだという蓮如上人の説法を思い出したのでした。 そして、いつの間にか清九郎の口の中からお名号が自然と流れるようになりました。仏様を頼む思いも起こらなかったのに、阿弥陀様の方から「我をたのめよ」という呼び声が聞こえて、感激するようになったのでした。

貧しい中でも自然と念仏をする姿が、妙好人と呼ばれる所以です。

清九郎の墓地を訪ねる

暑さの残る平成18年9月6日に、藤井教授と私は奈良県にある近鉄の吉野口駅に降り立ち、奈良県吉野郡大淀町鉾立にある清九郎の旧跡に向かいました。 鄙びた駅前のロータリーから、急な坂道をタクシーで15分くらい走り、上りきったところに「清九郎菩提所光蓮寺」という白い道案内立て看板がありました。

細い坂道を上ると、大きな木の奥に瓦屋根の平屋が見えます。 真白い障子の右端に、「念仏行者妙好人大和清九郎菩提所」と「清九郎永代経浄元忌毎年4月18日」という2枚の板が掛かっていました。

外から声を掛けると、部屋の中から二人の老人が出てきて、部屋の奥にある仏壇の前に導かれました。 仏壇には真ん中に阿弥陀如来立像があり、周りのお飾り、花瓶、金吊塔などは質素な装飾で、清九郎に相応しいと感じました。 実は、この二人の老人のうちの一人が、清九郎の研究で本も出版している遠藤撮雄(えんどうさつゆう)さんでした。 本をいただくまで、親切な方という認識しかなかったのは、お恥ずかしい限りです。

光蓮寺の仏壇
<光蓮寺の仏壇>

遠藤さんは清九郎について詳しくお話くださり、最後に「わざわざ東京からお越しくださったので、ぜひ清九郎のお墓にお参り下さいませんか。 実はこの寺には檀家が4軒しかないのですが、昨日、そのために檀家全員で一日がかりでお墓までの道を清掃して、竹藪や草藪の中に上り道を造りました。」と言って、 杖まで用意されていました。

是非ということで、山の上にあるお墓に我々二人は登りました。人ひとりがやっと通れるような竹藪や、背丈以上に伸びた草の中に細い急な坂道がありました。 杖を頼りに10分くらい登って行きますと、今では土交じりですが、かつては玉砂利が敷き詰められていたであろう、横幅が10m位もある参道が現れます。 その奥に一対の大きな石灯篭があり、かつては多くのお参りがあったと思われる立派な墓石の奥に鬱蒼と生い茂る樹々が、お墓を守るように立ち並んでいました。

墓地の北方向の樹々の合間からは、奈良平野が遥か遠くまで広がっているのが見えました。背丈ほどの草の中を上ってきたとは思えないほど、とても眺めの良い場所でした。

大和の清九郎の墓所
<大和の清九郎の墓所>

墓地の近くに生家

清九郎の墓地を参拝して光蓮寺を後にすると、左に曲がる狭い小道がありました。 周囲には鬱蒼たる藪と大きな樹々があり、その下をふと見ると、縦30センチ横1メートルほどの横書きの白い板に大きな文字で、「清九郎屋敷跡」という案内看板があり、 分岐する小道の入口には杭状の「←清九郎菩提所光蓮寺」という立看板があるのに気付きました。時間の関係で訪問できませんでしたが、この先に清九郎の質素な屋敷があったようです。

立て看板
<清九郎屋敷跡と光蓮寺入口の看板>

御所市戸毛の大乗寺

タクシーで近鉄吉野口駅に戻り、線路に沿って北方に歩きますと、開山当初は禅寺でしたが、蓮如上人の感化で浄土真宗に改宗されたと伝わる御所市戸毛の「大乗寺」があります。 予約なしに立ち寄りましたところ、幸いご住職がいらして、有名な筵席(むしろせき)の上で書かれた、「蓮如上人の虎の尾名号」の実物の掛け軸や「大乗寺由書記」を始め、 お庭などを拝見しました。清九郎が回心した頃この寺に熱心に通い、法座に参って住職の法話を聞いていたのでしょう。

蓮如上人は、京都から吉野に行き来した際にこの寺で休憩し、唯円の墓がある秋野川の立興寺や秋野川門徒の下市御坊に行かれたり、更に吉野川上流にある飯貝の本善寺へ行かれ たりしたといわれています。吉野の立興寺(住職のこぼれ話―2―参照)

大乗寺のご住職は、突然の客にも大変親切で、駅まで車で快く送っていただきました。 道すがらキトラ古墳や高松塚古墳を通り、清九郎が生活した場所は、飛鳥時代、奈良時代から平安時代、戦国時代へと綿々と続く歴史の舞台だったことがわかりました。

回心の重要さに気付く

そして、その他の妙好人もそうであるように、不幸や不運から心身ともに荒れた生活に陥ったひとも、聞法して自己を見つめなおし回心すると、何事にも屈しない不退転の心を持つことができるのだと思いました。



                              
参考文献遠藤撮雄妙好人清九郎物語」  法蔵館(平成2年5月)
遠藤撮雄妙好人清九郎のお領解」非売品(平成2年4月)
花岡大学妙好人清九郎
鈴木大拙妙好人