浄土真宗 正信寺
正信寺
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2013年11月23日 正信寺 報恩講 釋慈慧 法話 要旨

正信偈の言葉より「煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」

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2013年11月23日 正信寺 報恩講 釋京英 法話 要旨

四苦八苦のうち 5.怨憎会苦・ 6.求不得苦

5.怨憎会苦

娑婆に生きている我々は毎日、四苦八苦に悩まされて生きています。今回はそのうち、怨憎会苦について考えてみましょう。 私たちは、日常生活する時に四六時中、必ず当面している問題です。気に入るものを近づけ、好ましくないものを遠ざけるようにします。 そこに思うようにはならないものがあり、そこから「苦」が生じるとお釈迦様が断じています。我々は人間ですから、付き合う人間が1人以上必ず存在します。 他人は、皆私と、同じ性格、同じ考え、同じ行動の人ばかりではありません。

他の人と何らかの関わりがあり、それが自分にとって、好ましいものか、嫌いなものか、恨みがあるか、憎いものか、 損するか、得するか、好きか嫌いか、上役か、部下か、夫や妻か、嫁、姑、男か女かなど、自分の感じと全く同じものはありません。 嫌いだと内心思っていても、合えばニコニコと笑みを浮かべ、全く逆の態度をとらざるを得ない場合も本当に多いのがこの世です。 相手にとっては快いのです。

どうしたらよいのか、この解決に悩むのが人生であります。 ちょっとしたこちら側の変化で、相手の態度が変化することがまま多いいのです。自分の心に沿わないけれども、 相手の立場を少し考慮し、言動に配慮することで円満に行く場合もあります。怨憎会苦に関連した聖人の和讃に次のような和讃があります。 親鸞聖人は「恩愛はなはだたちがたく 生死はなはだつきがたし 念仏三昧行じてぞ 罪障を滅し度脱せし」(高僧和讃 龍樹菩薩)、 「煩悩に(まなこ)さえられて 摂取の光明(ひかり)みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり」 (高僧和讃 源信大師)と詠んでいます。

相田みつを は「愛する人との 別れもつらいけど 会いたくない人に 会うのも苦るしみなんだよね」と詩に表しています。


6.求不得苦

現代の日本は、お金があれば、何でも手にはいる世の中になりました。お金がなくて生活に困っても、社会保障が充実してきて、 飢え死にすることは殆どなくなりました。しかし、人間の欲望は限りなく、一つ得るとしばらくすると更にもっと欲しくなります。 それも「物」や「生活」、「身分」など限りがありません。しかし、この欲望が生きる糧ともなっています。 欲しいという欲望が全くなくなってしまうことはお釈迦様が言うように煩悩(欲望)の火を吹き消すことが修行の目的であれば 「死・涅槃」を得ることになります。欲望がある限り、生きているのです。生きるために欲望が必要です。

人間は生きていくためには、必ず、お盆に話しましたエントロピー (生物は命を維持するため外からエネルギー<栄養>=マイナスのエントロピーを食べて生きていること)を維持するために、 欲望が必要になります。親鸞聖人は凡夫は「煩悩(欲望)を断ぜずして涅槃を得る」ために阿弥陀様を信じ「南無阿弥陀仏」 を称えることを勧めました。お金持ちになりたい、偉くなりたい、いい生活をしたい、等など人生には常に苦楽が付きまとうものです。 生死無常、極悪深重の逃れ難い私たちを助けんと働いて下さっているのが阿弥陀様です。これに関し、聖人に次のように和讃があります。

「生死の苦海ほとりなし 久しく沈めるわれらをば 弥陀の悲願の船のみぞ 乗せて必ず渡しける」(高僧和讃 龍樹菩薩)と親鸞聖人は詠っています。 また、「本願力にあいぬれば むなしくすぐる人ぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」(高僧和讃 天親菩薩)。

「煩悩具足と身知(しんち)して 本願力に乗ずれば すなわち  穢身(えしん)すてはてゝ 法性常楽証せしむ」(高僧和讃 善導大師)と教えていただいています。